『彼女』
彼女はとても唄が上手い。 リビングで歌う彼女の声は澄んで部屋中に響き渡る。 ボエ〜〜♪ デッデロゲ〜ゥ♪ その音色に聞き惚れてか、妻の鼻唄も調子がいい。 子供たちは、競って彼女を奪い合い、自分たちのオヤツを与え競う。 デプププッ!! デプププッ!! お風呂に入れるのは妻の役目だ。 デッスゥ〜〜ン♪ デッスゥ〜〜ン♪ 実装用のトリートメント「パンコーン」で、自慢の栗色の髪を手入れする。 さすが女同士なのか、美については妥協がない。 彼女と妻は浴槽に浸かり、女同士の秘事を語るのに夢中のようだ。 夜は、私の寝室に彼女は忍び寄る。 「どうしたんだい。怖い夢でも見たのかい」 デスゥゥゥゥ…… 目元に光る涙を湛えた彼女は、私の布団に入り込むや、 鼻腔一杯に私の体臭を嗅ぎながら、眠りにつく。 そんな家族たちと彼女の生活。 転勤の機に、私達は彼女と別れなければならない。 デスゥ〜ン♪ デスゥ〜ン♪ 余所行きの服。黄色のフリフリのついた洋服に身を包んだ彼女は上機嫌だ。 妻と子供達は別れが辛いのか、車に同上しなかった。 私と彼女は車に乗り込む。 辛い別れだ。 妻と子供達は家で泣いているに違いない。 デスゥ〜? 私の暗い顔を察してか、助手席で私の顔を覗き込む彼女。 そんな優しい彼女の気遣いを心に噛み締めながら、私はアクセルを吹かした。 車は首都高を降りて、新宿口から都庁の前を通り抜け、近くの駐車場へと車を止める。 デスッ!! デスデスッ!! 初めて見るビル郡。人の流れ。煌びやかなネオン。無機質な雑踏が広がるコンクリートの街。 そんな初めて見る物に目を囚われる彼女。 私は、食い入るように左右を見やる彼女を抱き上げ、アルタ前方面へと歩いた。 「……すごい街だろ」 「デスァ!! デスァ!!」 「今日から、ここがおまえの街だ」 「デスァ!! デスァ!!」 彼女の目に映る物は全てが新鮮だったようだ。 レコード店から流れる音楽に耳を傾けなら、頬を赤らめる。 道行く流行服に身を包んだOLたちを見やっては、口を呆けたように広げて見つめている。 アルタ前のスクリーンを見上げては、デデッ!!と大きな声で叫んでいる。 あれは?あれは? そう言いながら、彼女は近くの人影のズボンを掴んだ。 蹴られた。不快な糞蟲を見るような目で、そのズボンの持ち主は彼女を蹴り上げた。 デェェェェーーンッ!! デェェェェーーンッ!! 最初は何をされたかわからなかったが、次第に痛みがリアルとなり、彼女は泣き始めた。 デェェェェーーンッ!! デェェェェーーンッ!! 優しい手が彼女を抱き上げ、彼女を優しく労わってくれるまで、彼女は泣き続けた。 …デスン …デスン デ… 周囲の雑踏を見回して、彼女は気がついた。 あの優しい男はどこ。あの女は。あの小さな奴隷たちは? 周囲の人たちが全て見知らぬ他人と気付いた彼女は、悲鳴のような声を上げた。 デェェェェーーンッ!! デェェェェーーンッ!! 雑踏を掻き分けて、泣きながら走る。見知らぬ人に抱きつき、また蹴り上げられる。 黄色い余所行きの服は、もう既に涙と泥と血で汚れていた。 デェックッ!! デェックッ!! ジャァァァァーーーッ!! アッアッーーーッ!! 錯乱状態で走り抜ける。息があがっても、肩で息をしても、彼女は叫び続けた。 ニンゲンッ!! 何処デスッ!! オンナッ!! ドレイッ!! 何処デスゥーーーッ!! 泣きながら、錯乱しながら、彼女は唄っていた。 あの澄んだ声で。透る透き通った声で。 デェックッ!! デスンッ!! ボ… ボエェ〜〜ッ!! ボエェ〜〜〜ゥッ!! 彼女は天を仰ぎながら歌った。 あの男や女。奴隷たちに届くために。 そんな彼女が交通の激しい国道に出た時、1台のタクシーが彼女の命を絶った。 (終わり)