テチ
「テチッ! 動くなっ! 動くんじゃないっ!」
男が道路を渡ろうとしているテチに向かって叫んでいた。
テェ!? テチュ〜ン♪ テチュ〜ン♪
男がテチに向かって叫んでいる。 自分に向かって、必死に声を出して叫んでいる。
テチュ〜ン♪ テチュ〜ン♪
呼んでいる! 男が自分を呼んでいる!
テッスン… テッス… テチュー♪
テチは、頬を赤らめ、両手で涙を拭う。 そして、器用に四肢を使い、縁石からアスファルトの道路に降り立った。
テチュー♪ テチュー♪
そして、男目掛けて、一目散に道路を横断し始めた。
「馬鹿ッ!! テチッ!! 動くな!!」
男の怒号が轟く。
テチィィィィィィィィィーーーーー♪
両手をバタつかせながら道路を横断するテチ。 そのテチの視界を遮った鉄の塊。
テェ?
時速60kmで疾走する軽自動車。 僅かテチの鼻先数センチ先を鉄塊が疾り抜けた。
テェェェェェェェェッッッッ!!!!
テチはその鉄塊の煽りを受け、紙切れのように舞い上がった。
『テチ』11
■登場人物 男 :テチの飼い主。 テチ :母実装を交通事故で失った仔実装。
■前回までのあらすじ 街中に響いたブレーキ音。1匹の飼い実装石が交通事故で命を失う。 その飼い実装は、ピンクの実装服の1匹の仔を残した。その名は『テチ』。 天涯孤独のテチは、男に拾われ、新しい飼い実装の生活を始める。 紆余曲折を経ながら、テチと男は互いに信頼を重ねていく。しかし、 無情にも、二人を別つ時が訪れた。テチは中年女に連れられ、街を去る。 二度と男に会えないと本能で知ったテチは、男が自分にとって、掛替えのない 人間であったかを知る。テチは男を追う。そして、追いついた男とテチの間 には、二人の絆を別つ冷酷なアスファルトが広がっていた。 ==========================================================================
テェェェェェェェェッッッッ!!!!
紙切れのように宙に舞ったテチは、空中で数回体を回転させ、そのまま縁石に叩きつけられる。
ケホッ!! ケホッ!!
激しく咳き込むテチ。
テェェェッッ!! テェエエエン! テェエエエエーーーン!!
縁石に体を激しく叩き付けられたが、車の直撃は辛うじて避けていた。 車が通過する際に起こった風の煽りで飛ばされただけであった。 幸いにも、致命傷となる外傷は負ってはない。
テェェェェェー…
しかし、縁石にぶつけられたショックでか下着を思いっきりパンコンさせ、 両手を両目に宛がい、テチは足をバタつかせ、痛みを声に出して主張する。
「テチッ!!」
男が叫ぶ。
テェ? テチュゥーーーッッ!!! テチュゥーーーッッ!!!
通行量の激しい国道の喧騒の中、男の叫ぶ声に気づいたのか、テチは頬を伝う涙を 泥に汚れた手で拭いながら、男に向かって助けを求めた。
「動くな! 今行くからな!待ってろ!」
男は道路の左右を見やる。 しかし、ここは交通量の激しい国道。その流れる車の列が途切れる気配はない。
手を上げて渡ろうとするが、時速60km近く出ている車が、そう簡単に止まれるはずもない。
テチュゥゥゥゥーーーッッ!!! テチュゥゥゥゥーーーッッ!!!
高速で通り過ぎる車の陰に見え隠れする男の姿に対し、テチは必死に声を荒げて呼びかける。
男はそのテチの悲痛な声に応えん為にも、必死に国道の向こうへ渡ろうとする。 しかし、国道の車の往来が男の行方を遮り続けた。
テェッ!! テェッ!!
テチも流石に車の恐怖に自重していたが、男への恋しさ故か、 無謀にも、再びアスファルトに身を躍らせる機会を必死に伺っていた。
テチィィッッ!! テチィィィィッッッ!!!!
嫌いな音。嫌な匂い。体を吹き飛ばす突風。
テェッ!! テェッ!!
その恐怖にも耐え、テチは歯を食い縛る。
もう失うのは嫌だ。 あの温もり。あの時間。あの空間。
テチィィッッ!! テチィィィィッッッ!!!!
テチは、ガタガタ鳴る奥歯を必死に食い縛り、震える手を縁石から離す。 全ては男のために。
テチィィィィッッッーーー!!!!
テチは、パンコンで膨らんだ下着をそのままに、再び男に向かって駆け始める。
「ば、馬鹿!! 戻れ!テチッ!!」
テッスン… テッスン… テェェ!?
男の叫び声と同時に、再びテチの前を覆う鉄の塊。
テェェェェェェェッッッ!!!!!
男の叫び声も空しく、その突風の煽りを受け、再び縁石に弾き飛ばされる。
(ガンッ!!)
テェェェェ…… テェェェェーーーンッ!!!
思いっきり後頭部を縁石にぶつけたのか、ますます下着を壮大に盛り上げて、泣き叫び続ける。
デチチーッッ!! デチチーッッ!!
男に近づけないもどかしさからか、下着の糞を掴んでは、往来の車に向けて出鱈目に投げつける。
駄目だ。 このままでは、テチが轢かれてしまう!
男は焦っていた。 男も無理やり道路を渡ろうと試みるが、それもクラクションに阻まれ、ままならない。
男は、左右を見やる。ふと左を見ると歩道橋。 少し離れているが、走れば数分でテチの居る対向の舗道に辿り着けるはずだ。
「テチ!! 動くな!! 俺が行くまで動くな!!」
男はテチに怒鳴るように言いつけ、歩道橋に向かって走った。
テチュッ!? テェェェェンッ!!! テェェェェーーーンッ!!!
テチと反対方向へ駆ける男に気付き、縁石付近で泣いていたテチが、大声で喚き始める。
テチィィィィィィィーーーーッッ!?
テチは自分から離れる男を追い、再びアスファルトに身を躍らせた。 さらに大きくしたパンコンを地面に引き摺りながら、男に向かって車道を斜めに駆け始める。
テチィィィ〜〜!! テチィィィィ〜〜!!
テチの喉は垂直に、溢れる涙をそのままに、テチは車道を横断する。
テッスン…!! テッスン…!!
テチが横断する道路。国道2号線の下り路線の3車線の左車線。 その中央付近に、テチが差し掛かった時だった。
(プップッーー!!)
テェッッ!?
テチは、クラクションの鳴る方向を凝視するや、その場でピタリと立ち止まってしまう。
テェェッ…!? テェェッ…!?(プップッーー!!)
高速で疾走する自動車から鳴り響く、身の毛をよだたせるクラクション音。 テチは、その生理的に受け付けぬ音に身を竦ませ、テェェェェッッ!!という小さな悲鳴を上げる。 恐怖のためか、足はまるでアスファルトに根が張ったようにピクリとも動かない。
テェエエエエッッ!??? (プップッーー!!)
自ら置かれた状況を再認識したテチは、高速シャッターのように、瞳孔を大きく小さく瞬かせる。 そして、歯をガタガタと鳴らし、小刻みに震えながら、前方から迫り狂う自動車を凝視した。
ピャ… ピャァ… (じょぉぉぉぉぉ……)
乾いたアスファルトの上に、湿った尿溜まりが、水面の上の波紋のように円状に広がっていく。
ププゥゥゥッーー!!!!
一段と大きく轟くクラクション。 テチと車の間は、わずか数メートル。
ピィッ!! ピィィィィィ〜〜ッ!!!
テチは白目を剥き、口から白色の泡を吐きながら、後ろにそのまま倒れる。
(ゴオオオォォォォーーー!!!)
ピィッ!! ピィッ!!
仰向けに倒れたテチの上を通過する形で、自動車がテチの目の前を疾走して行く。
ピャァーーー!!! ピャァアァァーーーー!?
自動車の腹が、テチの前髪を噛みながら、燻った匂いをさせて通り過ぎる。
ピェェェェェェンッ!! ピェェェェェェンッ!!
自動車が起こす風の煽りで、テチの体が一瞬浮く。 しかし、テチのパンコンが重しとなり、幸か不幸か、テチの体はアスファルトの上に縫い止められている。
ピィッ!! チュワッ!!
2台目。3台目。
(ゴオオオォォォォーーー!!!)
テェェェェッッ!!! テェェェェッッ!!!
時速60km近い速さの車が、次々とテチの眼前を通過して行く。
6台目。7台目。
(ゴオオオォォォォーーー!!!)
テェェェェッッ!!! テェェェェッッ!!! (ガタガタガタ… ブリリリィ… ジョォォォォ…)
重しとなったパンコンが、テチに幸いしたのかは分からない。 しかし、テチは生きながらにして、この世の地獄とも思える状況に、有らん限りの悲鳴を 搾り出す事になった。
次々と通過する車。 特に車体の低い車は、テチの鼻頭の肉と前髪を毟り取った。
チャァァァァァァァァァァッッッーーーー!!!!!
眼球からは、血涙が潮のように、ピュッ!!ピュッ!!と吹いている。 その眼球は、瞼から3/4ほどが迫り出し、目の前を轟音と共に走る自動車の腹を 忙しなくギョロリギョロリと追っている。
ピャァッッ!! ピャァッッ!! ィィィィィッッッ〜〜!!!!
旋風はテチの残った前髪を凪ぎ、排ガスはテチの顔を撫で、轟音がテチの鼓膜を焼く。
無意識のうちにテチは、手足をたたみ、胎児の姿の格好で、ピィィィ〜!! ピィィィィ〜!!と 小刻みに震えるしかなかった。
どれくらい耐えただろうか。
テチ!テチテチテチテチテチテチテチテチテチ… テェ?
薄っすらと目を開けると、青い空が目の前に広がっていた。 それは、僅かな車の往来の途切れ。テチが倒れている舗道よりの車線には車の姿が、今はない。
テェ?
それに耳に響く暖かい声。
「テチ!!」
テェ? テェ?
「テチ!! 今だ!! 戻れ!!」
歩道橋に達した男が、階段を駆け上りながら、テチに向かって叫んでいた。
テェ…!? テェ…!?
男の声に反応したのか、テチは顔を上げる。 そして、周囲を見渡しながら、急いで体を起こした。
テェェェェ…!?
嫌な音。臭い匂い。嫌いな車。それがない! 逃げるなら、今しかない!
テチは男に言葉に従い、這いずりながら、その場を離れようとする。 しかし、パンコンした下着が、テチの頭部の2倍近くに膨れ上がっているので、移動もままならない。
テェェ…!! テッスン… テッスン…
しかしテチは、歯を食いしばり、両手でずり落ちる下着を掴み、半分這うようにして、その車線から逃れた。
テチィィィィ〜!! テスン… テスン… テチィィィィ〜!!
「ば、馬鹿!! テチ!!」
その逃げ惑うテチの姿を見て、男の怒号が飛ぶ。
「テチ!! 逆だ!! 逆っ!!」
その場の危機的状況を察し、本能に従い、テチはその場から逃げ出した。 しかし、その逃避先は舗道ではなく、隣の中央車線に向かって逃げ出したのである。
歩道橋の上り階段の途中で、叫び続ける男。
テェ!? テチュ〜ン♪ ヒック… テチュ〜♪
遠く見える男の姿に反応したのか、今までの悲壮たる声が、甘い泣き声に変わる。
「待ってろ!! 今そっちに行く!!」
男はテチに一言声をかける。 そしてテチに背を向け、歩道橋の階段を一気に駆け上った。
テェ!? テチュー!! テチュー!!
自分に背を向ける男に対して、右手を口元に当てて、媚び続けるテチ。
どうして? どうして私から離れるの?
テェ… テェェ……
嫌いになったの?
テッスン… テッスン…
我侭ばかり言うから嫌いになったの?
テ・チュ〜ン♪ ヒック… テ・チュ〜ン♪
道路の中央で、実装ダンスを踊り出すテチ。
この実装ダンスを踊る時は、男は必ず元気になった。 笑って、頭を優しくなでてくれた。
テチは、男の気を引くために、必死に実装ダンスを踊り続ける。
手を後ろに結んで、蟹歩き。 (テ・チュ〜ン♪ テ・チュ〜ン♪) お尻を突き出して、右へ左へ。 (テ・チュ〜ン♪ テ・チュ〜ン♪) ウインクしながら、クルクル回転。(チュワ〜ン♪ チュワワ〜ン♪)
(ゴオオオォォォォーーー!!!) テェェ!!! チュワワワワワッッッ!!!
そのテチのすぐ後ろを、自動車がクラクションと共に疾走する。
テェ… テェェ…!!
前のめりで這いながら逃げる。
(ゴオオオォォォォーーー!!!) ジュアアアアアッッ!!! デチャァーー!! デチャァーーー!!!
すぐ目の前をまた別の車が疾走する。
テェ… テ・チュ〜ン♪ ヒック… テ・チュ〜ン♪
しかし、テチは踊り続ける。
それは死出の踊り。悲壮なまでのその動きは、冴えに冴え、静から動。 動から静。水が高きから低きに流れるが如く。その動きは、まさしく流水。
(プップーー!! プゥゥゥゥゥゥゥーーー!!)チュワァァァァァァッッッ!!!
しかし、この修羅場では、まったく関係がなかった。 実装ダンスを踊る内に、テチは3車線目の右車線まで追いやられていた。
テッスン… テッスン… テェ?
「なんだ…?」
歩道橋の階段を上りきり、一気に歩道橋を横断する男も、その音に気がついた。
(ドドドドドドド………)
遠くから聞こえる地響きのようなエンジン音。
(ドドドドドドド………)
テェェェ…!!
男とテチの目にも、それは目視できた。 下り路線から迫り来る巨大な鉄塊。
「テチ!! 逃げろ!! トラックだ!!」
テェェェェェッッ!!!
2tトラック。 木材を満載したトラックが、テチが逃げ惑う3車線の右車線上を、 まるでテチを狙うが如く、地響きを立てながら、疾走して来る。
その禍々しい巨大なタイヤは、アスファルトを乱暴に噛み、 テチにその牙を剥き出しにして、襲い掛かるようである。
チュワッ!! チュワッ!!
その場で、ぐるぐると円を描いて逃げ惑うテチ。 しかし、いくら駆けようが、その場から逃れることはできない。
テェェェッッ!! テェェェェェェェッッーーー!!!
「テチッ! 逃げろッ!!」
男は歩道橋の上から、体を乗り出して叫ぶ。 後ろ向きにトラックとの距離を確認しながら、テチまで距離を測る。
駄目だ! 歩道橋を回って降りていたら、間に合わない!
「…………ッ!」
焦る男は、ふと気がつく。 この国道の上下6車線を隔てる中央分離帯の存在に。
中央分離帯は、芝生や植え込み、そして木などが植えられており、テチの体ぐらいは 隠せる一定のスペースがそこにあった。
「テチッ! 中央分離帯だ!そっちに逃げろ!」
ピィッ〜!! ピィィィッ〜!!
男の声が、テチに届いているのか否か。 テチは裏返った声を発しながら、その場でパンコンした下着の上に座り込んでしまっている。
ゴオオオオオオォォォォォ……
2tトラックが地響きを立てて、テチに向かって、着実に迫っている。
テェェ……
テチは、顔を真っ青にして、ワナワナと顔の筋肉を震わせながら、目の前の 次第に大きくなるトラックを、凝視し続けている。
テ……テチュ〜♪
追い詰められたテチは、悲壮な表情で、トラックの向かって媚を始めた。
テェ… テェェェ……!!
覚束ぬ足で立ち上がり、震える手で、下着を膝まで降ろす。 そして、スカートを両手でたくし上げ、緑に染まった股間をトラックに見せ付ける。
めくったスカートを口に咥え、余った手を口に添えて、媚びる。
テチュ〜ン♪ テチュ〜ン♪
羞恥と屈辱に耐えながら、涙目で2tトラックに媚び続けるテチ。 しかし、それも無駄な努力であった。
「くっ……」
歩道橋から乗り出した男は、苦虫を噛み締めたような顔で、トラックとテチの距離を再度測る。 荷台が多いためか、トラックはそうスピードは出していない。しかし、それも時間の問題だ。
「くそ……」
歩道橋の柵を掴む手にも力が入る。
「テチ……逃げろ」
届くはずもない小さな声で呪文のように呟いた。
「糞っ! 糞っ! 糞糞糞…」
呪詛のように呟く男の目に、中央分離帯の芝生の上に植えてある木が、ふと目に映る。
微妙な距離。 手を伸ばしても届きそうにないが、歩道橋の柵から飛び移れば充分に届くであろう距離。
「………………」
もしかしたら…
「………………」
男は思う。
もしかしたら、この木に飛び移れば。 もしかしたら、今、中央分離帯に下りることができれば。 もしかしたら、トラックよりも先に、テチにたどり着けるのではないだろうか。
プゥゥフォォォォォォォォォォーーー……
トラック独特の低いトーンのクラクション。 道路に座り込むピンク色の物体に気がついたのか、男の後ろからクラクションが鳴り響く。
「〜〜ッ!」
クラクションの音が、男の鼓膜に届くと同時に、男は無意識に柵に足をかけていた。 そして躊躇せず、宙に向かって跳んだ。
舗道の通行人の悲鳴を聞いたような気がした。
ガサッ!! ガサガサガサッッ!!
気がつけば、男は中央分離帯の木の下の芝生に、背を打ち据えていた。
息が一瞬止まる。 痛い。なんて言っていられない。 テチは?
ピャァ!! ピャァ!!
テチは、ただ只管、瞳孔の開いた瞳にたっぷりと溢れる涙を浮かべ、迫り来る鉄の塊を ガチガチと歯を鳴らせながら、見つめている。
ゴォォォォォォォォォォ……
男のすぐ後ろからトラックが迫る音が聞こえてくる。 振り向く間もなく痛む体をそのままに、整わぬ呼吸のまま、男は中央分離帯を走る。
息を吸い込む。 吐いている暇なんてない。
この歳になって、トラックと競走をするなんて思ってもみなかった。
あっと言う間に、男の横にトラックが並んだ。 同時に、男の注意を促したいのか、トラックのクラクションが低く轟き響く。
足がパンパンに張っている。 心臓がバクバクと鳴っている。 体中が悲鳴を上げている。
テチとの距離までは、あとわずか。
「はぁ… はぁ……… テチ!」
無情にも、トラックが男をあっさりと追い抜いた。
「テチッ!」
男を追い抜くトラックに追い縋りながら、男は叫んだ。 肺の中のない空気を搾り出し、男は叫んだ。 兎に角、力の限り、男は叫んだ。
「テチィィィィーーーーッッ!!!!」
その声は、トラックのクラクションでかき消されたかもしれない。
テェ…!?
しかし、クラクションにかき消されたはずの男の声は、確かにテチの耳に届いてた。
テ…チィィィ…?
その開いた瞳孔には、男の姿が映っていた。
チュワッ!! チュワワッッ!!
青ざめた顔に血の気が戻る。 震えた膝に力が戻ってくる。
テチィィィィィィィィィィィィーーーッッ!!!!
テチは確信した。男が助けに来てくれたということを。
助けに来た! 助けに来たんだ! ママが、助けに来てくれたんだ! ママ!! 私はここに居る…
テチュ〜ゴオオオオオオオオオオオオォォォォォーーーーー
テチの甘い嬌声をトラックの騒音が掻き消した。
パァーーーン!!
それは、車のタイヤがパンクしたような音。 それは、水が入ったゴム風船を潰したような音。 血肉が詰まった皮袋を、2tトラックのような大きなタイヤで、まるで轢いたかのような音。
「(はー、はー…)」
トラックに遅れて僅か10秒程。 肩で息をしながら、男はテチが居た場所に近づく。
トラックが走り去った後には、乾いたアスファルト上に、円状に緑の染みが広がっていた。
男は肩で息をしながら、その緑の染みに近づく。
「(はー… はー…)」
男は呆けたように、周囲を見る。
「(はー… はー…)」
そして、思い出したかのように、足元に広がる緑の染みを見つめた。
「(はー… はー…)」
そして、男は崩れるように膝を折った。
「馬鹿野郎…」
小さく呟いた。
「馬鹿野郎… 死んじまったら、何にもならねぇじゃねか……」
道路脇に佇む男の傍を、クラクションと共に車が通過していく。 その都度、アスファルトの緑の染みの飛沫が、膝を折った男の顔にも飛んだ。
男は呆然とその緑の染みを見詰めていた。 車が通る度に、その染みが広がっていく。
「テチ…」
緑の染みに見え隠れする緑に染まった白い布地が見え隠れしている。
「…………?」
憔悴していた男だが、ふと我に戻る。
白い布地。下着だ。それは、テチの下着だ。 ならピンクの実装服は?潰されたとはいえ、テチの遺体は?
男は立ち上がる。そして、顔についた緑を染みを拭って、その染みの匂いを嗅いでみる。 嗅ぎなれた匂い。糞だ。テチの糞だ。
「…テチ?」
男は周囲を見やる。
右。左。もしや。もしかしたら!
男は中央分離帯を駆けながら、慎重に左右を見る。
「(はー… はー…)」
そして、男はそれを見つけた。
「(はー… はー…)」
それは、離れた中央分離帯の植え込みの繁みの中で動いていた。
……ェ
繁みの暗がりの中から、ピンクに揺れる姿がそこにあった。
……ェェェ
恐怖に震え、小刻みに震える声に、聞き覚えがある。
「テチッ!」
男は繁みに向かって叫んでいた。
テェ!? テェェェェッッ!?
繁みの奥で揺れていたピンクの実装服が、男の声に反応して飛び出した。
「テチ! テチ!」
テェ!? テェェェ!? テェッッ!! テェッッ!!
繁みから飛び出したピンク服の仔実装は、潰れた片足でびっこを引きながら、 男に向かって走って行く。
テェェェ… テェェェェェン!!
「テチ!! 馬鹿野郎!! 心配かけさせやがって!!」
テェェェェェン!! テェェェェェェン!!
ぴょこぴょこ体を揺らしながら、一生懸命駆けるテチ。
テチが助かった理由。 それは、パンコンだった。 極限まで膨れたパンコンがテチを守ったのだ。
トラックのタイヤがテチを襲う刹那、極限にまで膨れたパンコンが破裂したのだ。 自動車の喧騒の音に響いた乾いた音。それは、そのパンコンの破裂音だったのだ。
極限にまで圧縮されていた糞が、そのタイヤの外圧によって裂け、その行き場を失った 糞圧により、テチは中央分離帯の繁みまで飛ばされたのだ。
片足は同時に、トラックのタイヤに持っていかれたが、幸い繁みがクッションとなり テチは一命を取り止めていたのだった。
「はははっ!! テチだ!! 生きてる!! 生きてるぞぉ!!」
テッスン… テッスン… テチィィィィィィーーー!! テチィィィィィィィィーーー!!
男に抱き上げられたテチが、嬉しそうに叫ぶ。 そして、堰を切ったように今度は泣き始める。
テェ… テェェェ… テェェエエエエエン!! テェェエエエエエン!!
その理由は、男にも痛い程わかった。 嫌いな車をも恐れず男を追ってきた理由。 命を賭してまで、男を追ってきた理由。
それは僅かな時間であったが、互いに通じる事ができた証でもあった。
「わかったよ、テチ。もう何処にも行かないさ」
テェェエエエエエン!! テェェエエエエエン!!
男はテチを抱いたまま、そのまま中央分離帯へと腰を下ろした。
テェック… テェック…
テチは溢れる涙をそのままに、何度も何度も頬を男の胸に埋めて泣いた。
男は泣き叫ぶテチの頭を優しく撫でてやり、引越しまで考えてくれた中年女への説明を どうしようかと、途方に暮れて考えていた。
◇
それは、赤いポルシェであった。 1ヶ月前、繁華街で気持ち悪い生き物を轢き、ボンネットを凹ませてしまった。
金の工面をつけるまでが苦労した。 ツレから金をかき集めて、ようやく町工場へと預け、綺麗に直ったのが昨日の事だ。
自慢の車がアレでは、引っかかる女も引っかからない。 久しぶりに握る愛車のハンドルは、以前よりも増してフィットする気がした。
国道2号線の下り車線に入り、思いっきりアクセスを吹かす。 気持ちよく加速感に酔いしれる視界の中に、緑色に広がる染みを見つけた。
つい1ヶ月前の繁華街での出来事を思い出す。
あんな事はもう御免だ。 無意識のうちにアクセルを緩め、軽くブレーキを踏んだ。 それがいけなかった。
◇
その事故現場には、人だかりが出来ていた。
テェェエエエエエン!! テェェエエエエエン!!
その人だかりの中央には、ピンクの実装服を着た仔実装が泣いていた。
テェック… テェック… テェェエエエエエーーーーッッ!!!
ボロボロと大粒の涙を零すその仔実装の傍らには、その事故の犠牲者だろう男が アスファルトの上に倒れていた。
デチチーッ!! デチチーッ!!
必死に男の体を揺すり、まったく動かない男に何かを訴えかけている。
テェェェッ!! テェェェェェッッ…!!
しかし、男は仔実装の叫びに答えず、ピクリとも動かない。
ェェェェェ……ッ!!
自分の訴えに男が答えないと分かると、そのピンクの実装服を着た仔実装は、ワナワナと慄き始める。
テェェェ…
涙を零しながら、首を左右に振り、
ェェェェ…!!
潰れた片足を引き摺りながら、ゆっくり後ろに後退し、
テェック… テェック…
喉を垂直に、天に向かって、口を窄め、ピンクの仔実装は泣いた。
テチィィィィィィィィィィィ〜〜〜ッ!!!!
その仔実装は、テチだった。 泣きじゃくるテチの傍で倒れているのは、テチを拾った男だった。
男を取り囲む何人かの人だかりの後ろには、アスファルトの焦げ付くタイヤのブレーキ痕を残した 赤いポルシェが、道路の中央でエンジンから煙を出して止まっている。
スピードを超過した上に、粘液質な何かにタイヤを取られたスリップ事故らしい。 男はテチを抱きながら、その事故に巻き込まれたのだ。
テェェェェェンッ!! テェェェェェェン!!
大声で泣き叫ぶテチ。 片やピクリとも動かぬ男。
テチィィィィーーー!!! テチィィィィーーー!!!
男の近くに集まった何人かが、救助のため、携帯電話で警察や救急の手配をしている。
デチチーッ!! デチチーッ!!
テチはその人間のズボンを引張り、仕切りに倒れた男を泣きながら指差し、助けを請うている。 携帯電話で救助を要請している眼鏡の男は、場所を説明するのに精一杯で、テチどころではない。
ジャァァァァァ!!! デチチーッ!! デチチーッ!!
その人間が何もしてくれないと分かるや、両手が赤くなるぐらいアスファルトを叩き付けるテチ。
テェェェェェン!! テェェェエエエンッ!!
必死に別の人間に縋り寄っては、デチチーッ!!と叫んで、再び男の方を指差し続ける。
テェック… テチュ〜♪ ヒック… テチュワ〜ン♪
叫んでも無駄とわかっては、いきなり甘い声を出して、媚び始める。
テ・チュ〜ン♪ テェック… テ・チュ〜ン♪
実装ダンス。
人だかりは、仕切りに「毛布!毛布!」と叫んで、男の救助に忙しない。 誰もテチに振り返ろうとはしない。
デチチーッ!! デチチーッ!!
テェェェェェン!! テェェェエエエンッ!!
誰も男を助けないと分かるや否や、その場で四肢をバタつかせながら、泣き叫ぶテチ。
テェック… テスン… テェック…
びっこを引きながら、動かぬ男の元へと駆け寄る。
テチュ〜!! テチュ〜!!
再び泣きじゃくりながら、男の頭を揺すり始める。
チューッ!! テチュ〜ンッ!!
しかし、男の反応はない。
テ…
テチの脳裏には、ぐるぐると過去の記憶が蘇っていた。
テェ…
エリサベスを失ったあの街路の記憶。 ポリアンナを失ったあの高架の記憶。
テェェェェ…ッ!!!
そして、今、テチは最愛の男を失おうとしている。
テェェェエッ!! テェェェエッ!!
男の頭を、何度も何度も必死に揺すり続ける。 事故時に出来たでろう男の頭の傷が、出血し始める。
テェ!? チュワ!? チュワワワッ!!?
アスファルトに血溜まりが徐々に広がっていく。
チュワワーーッ!! チュワワーーッ!!
手にべっとりとついた男の血を見て、驚愕の表情で悲鳴を上げる。
テェ!? テッチィィィ!! テチテチーッ!!
テチは両手で、頭の傷口を必死に押さえ、テチテチテチテチテチ……と小刻みに震え始める。
ピィッ!! ピィィィィ〜〜!?
仔実装の力で傷口を抑えても、頭の出血は止まりようがない。
ピャァッ!! ピャァァァァ〜〜!!
次いで、テチは男の髪の毛を掻き分け、舌を出して傷口を必死に舐め取り始める。
テェ…ゥプッ…テェェ! テェェェ!!
テチは噴出す血潮を頭から浴びながら、歯茎を朱に染め、男のために必死に傷口を舐め取る。
無論、テチに医学的な知識は無いが、実装石も野生の動物である。 頭部からの出血が危険である事は、本能的にテチにも朧気に理解できた。
そして、エリサベスやポリアンナの死体に居合わせた経験が、この事態が危機的状況である事を テチに充分に理解せしめた。
止めなければ! この赤いのを止めなければ!
ゥプッ… テェェ… チュパ… チュパ…
ついに吸引を始めるテチ。 見かねた周囲の人間達がテチを制する。
テェ!? デチチーッ!! デチチーッ!!
黄色い歯茎を朱に染め、唾液の混じった血を飛ばしながら、テチを制した人間を威嚇するテチ。
救急に連絡を終えた眼鏡の男が倒れている男に近づき、意識があるか必死に男に声をかける。
テェェ!? チュワワーーッ!! チュワワワーーーッ!!
テチは制していた人間の手をくぐり抜け、男に必死に声をかける眼鏡の男の間に入り、 手を水平に広げ、男を守り始めた。
シャァァァァァァァァッッ!!! プルッシャァァァァァッッ!!
血染めの唾液を飛ばし、鬼の形相で目の前の人間を睨みつける。
デチチーッ!! デチチーッ!!
ブリブリと糞を垂らして、それを手に持ち、周囲の人間に投げつける。
テェック… テェック…
周囲の人間たちが怯んだのを確認すると、テチは涙を拭いながら、男の胸へと這い上がる。
テチュ〜ン♪ ヒック… テチュ〜ン♪
青くなった男の顔をうっとりと見つめ、顔を傾げて頬を赤らめる。
テチュ〜♪
可愛く媚びて見る。
テチはドキドキしながら、頭を撫でてくれる事を期待した。
テチュ〜…
しかし、男の瞼は閉じられたままだった。
テェ… テェック…
テチの瞳に再び涙が溢れてくる。
テェック… テェェェェ… テェェェエンッッ!!
大粒の涙が頬を伝う。
テチィィィィ〜!! テチィィィ〜〜!!
喉を垂直にして、泣く。
テェック… テッスン… テッスン…
不器用な手で男の上着を掴み、忙しく上下に揺すって泣き続けるテチ。 テチはボロボロと涙を零しながら、肌蹴た男の上着の合間から、胸元に体を潜み込ませた。
チュ〜… テチュ〜…
次いで現実逃避に走ったのか、男の服の下からくぐもった嬌声と共に、チュパ… チュパ…と 湿った音が辺りに響く。
ざわ…
この異様な光景に、周囲の人だかりに凍りついた雰囲気が流れる。 眼鏡の男が、堪らず服の間からテチを引きずり出し、テチを後ろに放り投げた。
テェ!? テェェェェェェ……!!!(ドン!)
放り投げられたテチは、中央分離帯の縁石で後頭部を思いっきりぶつける。
テェェェェェ……ッ!!!! エエエエ……ッッ!!!
短い両手で後頭部を押え、のた打ち回るテチ。 そうこうしているうちに、遠くから救急車のサイレン音が聞こえ始めた。
(ゥ〜 ゥ〜 ゥ〜)
エエ……ッ!! テェ!?
サイレンの音に反応してか、テチは血塗れのピンクの実装服姿で、両目をこれでもかと見開き、 チュワッ!? チュワ!? テェッ!? テェッ!? と、首を高速に左右に振る。
(ウゥ〜 ウゥ〜 ウゥ〜)
大の男でも耳を劈く(つんざく)ような大音量のサイレン音をその場に轟かせ、救急車が 現場へとやってくる。
救助に当たっていた者達が、両手で手を振り、事後現場へと救急車を誘導している。
チュワッ!!! デチチーッッ!! デチチィーーッ!!
その後ろでテチは届かぬ耳に手を宛がい、今まで聴いたことのない奇怪な音に 肌に粟を立てながら、悲鳴を上げて逃げ惑っている。
チャァァァァァァァァァッッ!!
走った先のアスファルトの血溜まりで滑り転び、血溜まりに顔から突っ込むテチ。
ヂュワワワッッ!!! デチチーッッ!! チチーッッ!!!
アスファルトの血溜まりの中で、仰向けになり四肢をバタつかせるテチ。
その間に救急車が現場に到着する。
同時にサイレンも止まり、テチは前髪から朱の珠の雫を血溜まりに落としながら、 サイレン音が消えた事に対して、テェ!? テェ!?と周囲を見渡している。
救急車からは、白い服を着た救助員が2名、担架を持って男に向かって駆けつける
テェッ!?
テチは、男の傍らで瞳孔を真ん丸に開け、テチに向かって駆ける救急隊員達を見やる。
テェェ!? テェェエエエ……ッッ!!!
新たな敵の出現に、驚愕の表情を隠しきれないでいるテチ。
救急隊員が、男に近づき応急処置を始めた。 男の瞼を開き、目に光を当て、脈を取る。
チャァァァァァーーーッッ!!! ヂュワワワーーッッ!!!
テチは、奇声を上げ、びっこを引きながら、男と救急隊員の間に割り込もうとする。
シャァァァァァァァッッ!!! プルッシャァァァァァッッッ!!!
テチは、四肢の姿で血染め犬歯を露わにし、威嚇を始める。
「何だ?」 「実装石?」
事情の知らぬ救急隊員は、縋るテチを足蹴にし、男の救助確保を優先する。
「向こうに行け」
テェェェ!! チッチィィーッッッ!!
「担架に移すぞ」 「はい」
2名の救急隊員が、男の肩と両足をそれぞれ持ち、横に並べた担架に男の体を移す。
チュワ!? チュワ!?
「よし運ぶぞ。ゆっくりだ」
テェ!?
担架に移された男が宙に浮いた。
テェェェェ!!? デチチー!! デチチー!!
テチは奇声を上げながら、運ばれる男に追い縋ろうと必死に走る。
「向こう行ってろ」(バシッ!!)
テェ!? チャァァァァァッ!!
救急隊員の一人が後ろ足で、テチを足蹴にする。
テェェェ!? テェェェェェェ…ッッ!! (ガンッ!!)
蹴られた拍子で、硬く冷たいアスファルトの上につんのめる。
〜〜〜ッッ!!!
鼻頭を押えて、溢れる鼻血を押えながら、もんどりうつテチ。
その隙に、男は救急隊員の手により、担架で運ばれて行く。
チャァァッッ!?
テチは目を白黒させながら、頬を戦慄(わなな)かせ、救急隊員に運ばれる男を見送りながら、
デチチィィーーーッッ!! デチチィィーーーッッ!!
と、潰れた足をガシガシとアスファルトに叩き付け、地団駄を踏む。
シュゥゥゥゥ…… シュゥゥゥゥゥ……
食い縛る犬歯の間から漏れる荒い呼吸音。 腫れた瞼の奥に光る野生の瞳には、連れ去られる最愛の男。
ェェェェェ… ェェェェェッッ!!!!
血塗れに朱で染まった実装服を身に纏い、痛い足を物ともせず、連れ去られる男に向かって、 テチは駆けた。
テチィィィィィィィィッッッーーー!!!
仔実装にしては、信じられない速度だった。 ぐるぐると、器用に担架の下をくぐり抜け、円を描くように救急隊員の周りを駆ける。
テチィィィィィィィィッッッーーー!!! テェック… テチィィィィィィィィッッッーーー!!!
ぴょんぴょんと痛い筈の足で跳ね、担架の下から必死に男に向かって呼びかける。
テチィィィィィィィィッッッーーー!!! テェック… テェック… テェ?
その時だ。 運ばれている途中の振動だろうか。 担架の中に納まっていた男の手が、ぶらりと担架から垂れ下がった。
テチィィィィ!!!
テチは涙を拭いながら、地獄に垂れる蜘蛛の糸に縋るように、その垂れ下がる手に向って ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
テェック… ヒック… テチィィィーーー!! テチィィィィーーー!!!
必死に男の手を掴もうしている。 もう潰れた足の痛みなど感じない。
何度目の跳躍だろうか。 テチは男の手にしがみ付く事に成功した。
テェェ〜… テェェ〜…
男の手にしがみ付きながら、肩で荒い息をさせるテチ。
テチュ〜♪ テチュ〜♪
そして、しがみついた男の手に頬擦りを続けた。
チュ〜♪ チュ〜♪
しかし、テチがしがみ付いた手には、昔のあの優しい暖かさはない。
あの優しく撫でてくれた暖かい指。 それが今は氷のようにつめたく、人形のように硬い。
テェェェ… テッスン… テッスン…
しかし、テチは構わずその指に頬を擦りつけた。
テチュ〜♪ テチュ〜…
テチの涙交じりの甘い声が続いたのは、時間にしては、わずか十秒も満たなかった。 仔実装が腕の力だけで、揺れる何かにしがみ付くには、余りにも酷過ぎたのだ。 無情にもテチの握力にも限界が訪れたのだ。
テェ… テェェェ…!!
気がつくと、腕が痺れ出している。
テェェェ… テチィィィィィ!!!
気を抜くと、男の指が手から離れそうだった。
チィィィィ…ッ!! チィィィィ…ッ!!
ここで手を離すと、2度と男とは会えないような気がした。
テチィィィィィィィィィィーーーーッッ!!!!!
だから力の限り、テチは叫んだ。 手を離さんと力の限り、テチは叫んだ。
(するっ)
しかし、無情にも、テチの腕力にも限界が訪れた。
テェ…?
痺れた両手は、男の指をするりと擦り抜け、テチは重力に従い、アスファルトに向けて落下する。
テェェェェェッッッ!!!
もうすぐ訪れるであろう、落下に伴う衝撃。
チャァァァァァッッッ!!!
その衝撃の後には、硬く冷たいアスファルトに一匹残されるのだ。
テェェェェェンッ!! テェェェェエエンッ!!
そして、男は連れ去られる。一匹残されたテチは途方に暮れ、再び泣き始めるのだ。
テェック… テェック… テェェェェェンッ!! テェェェェェンッ!!
嫌だ。そんなのは嫌だ。
テチィィィィィィッッ!! テチィィィィィィッッ!!
離れたくない。離れたくない。
ィィィ…ッッ!! ィィィ…ッッ!!
一緒に居るんだ。一緒に居るんだ。
「…………ろ」
ィィィ…ッッ!! ィィィ… テェ…?
「……にしろ」
テチは、訪れるであろう衝撃に身構え、目を瞑り必死に体を強張らせいた。 しかし、一向に訪れぬ衝撃に対して訝り、目を開け首を左右に振る。
テェ…? テェ…?
テチは宙で吊られた格好で、首を左右に振っていた。 そのテチを支えるのは、ピンクの実装服の首根っこを掴んでいた、冷たい手だった。
「……静かにしろ」
暖かい声がテチの頭の上から響いてくる。
テェェェ…!?
「ったく…、煩いったらありゃしない」
テェェェェ…!!!
男だった。 それは意識を取り戻した男だった。
スリップ事故に巻き込まれた男は、テチを庇いながら頭を打ち、気を失っていた。 しかし昏倒する意識の中、甲高く叫ぶテチの声が、男の意識を引き摺り戻したのだ。
男はテチを持ち上げ、男の胸にテチを優しく置いてやった。
「よぉ…」
暖かい瞳がテチを優しく見つめていた。
テェ… テェェェェ……
「お前も…随分酷い格好だなぁ」
テェック… テェック…
その暖かい瞳の持ち主は、担架で運ばれる状況を悟ってか、自嘲しながら、 ピンクの仔実装に向かって苦笑した。
テチィィィィィィィィィ…………
「ああ。わかってるよ」
テェエエエエエエエエンッッ!! テェエエエエエエエンッッ!!
テチは、担架に運ばれる男の胸で泣いた。 肺腑の底から。喉が潰れん限り、全力で泣いた。
痺れる両手で男の胸元の服を握り締め、ボロボロと大粒の涙を零しながら、嬉しくて泣いた。
喉を垂直に、口を窄め、天に向かって泣いた。
ィィィィィィィィィィィィーーーーッッッ!!!
その泣き声には、今までのような寂寥感に包まれた悲壮な調べはない。
ィィィィィィィィィィィィーーーーッッッ!!!
歓喜に満ちたその泣き声は、その事故現場の喧騒の中、いつまでも響き渡った。
テチィィィィィィィィィィーーーーッッッ!!!
そう。 長い長い変遷を経て、ようやく。 テチは、本当のママに出会えたのだ。
(続く)