本作品は、ふたば学園祭2009の実装同人本に掲載したスクです。
古い作品のため、お蔵入りにする予定でしたが、アップさせて頂きます。
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「テチ」(エピローグ)
テチが死んだ。
翌日、男はテチの躯をダンボールに入れ、リビングでテチと一夜を明かした。
ダンボールの中には、生前テチが好きだった絵本やピンポン球。
そして、ピンクの実装服とテチテチ★魔法スティックなどが入れられている。
男は目を赤く腫らし、テチの母親エリサベスが身を包んでいたピンクの実装服をまとう実装人形と共に、
そのダンボールを見守っていた。
実装AIDS。
それがテチの命を奪った病の名である。病死であった。
しかし、病死であるはずのテチの顔は、ほんのりと赤みを帯びていた。
テチは、生前大好きだったアイテムに囲まれ、心なしか幸せそうに両の頬を上げているように見えた。
それは、まさに今にも起き出しそうな程で、目を腫らしている男も、テチが死んだことが信じられない程であった。
ペットロス症候群というのがある。
家族同様に暮らしていたペットを失った、その飼い主の傷心を示す症状だ。
今の男には、それが痛いほどわかる。
今にも動き出しそうなテチの姿を見て、男は目頭が溢れ出る涙を止めることができなかった。
一晩中、泣き腫らした目でテチを見つめた後、日が昇ると共に、男は死んだように眠った。
眠っている間、不思議と夢にはテチの姿は出てこなかった。
泥のように眠ったのち、シャワーを浴び、冷蔵庫の中の物を手当たり次第、喰らった。
「………………」
暗い相貌に無精髭を生やした男は、ダンボールの中の冷たいテチの死体を見つめ、ようやくテチの死を受け入れた。
リビングのカーテンを開けて、庭を見た。
最後にテチと花見をした桜の樹の花びらは、既に散り始めていた。
1
テチの遺体を葬ることにした。
最初に思い浮かんだのが保健所だった。
男がテチの母エリサベスを処分したのも保健所だった。
しかし、テチを保健所で処分するのも偲びなく、ペットを扱う町の葬儀屋などを当たってみた。
ペットの供養をする寺もあったが、その殆どが遺骨などは返って来ないという。
まだ夏場でもないため、テチの遺体はそれほど傷んではないが、そう長くこのままにはしてやれない。
男が手頃な近所の葬儀屋に、テチの遺体を託そうと思った時、庭の桜の樹が男の目に止まった。
もう半分ぐらいが散り終わった桜の樹。
死ぬ間際まで、テチが満開で咲くのを楽しみにしていた桜の樹。
ぶらりと庭に降り立ち、その桜の樹の下まで歩き、その散りぎわの桜の樹を見上げる。
「………そうだな」
案外、なるべくして、そうなったのかもしれない。
いや。きっと、テチもそれを望んでいたのだろう。
男はテチを、桜の樹の根本に葬ることにした。
中実装のテチの大きさなら、深く土を掘れば、葬れないこともない。
ここであれば、葬った後も絶えずテチと一緒にいることが出来る。
そう思うと、男は居ても立ってもいられなくなった。
男は急ぎ、スコップを取り出し、庭の桜の樹の根元を掘り起こし始めた。
そして、男は奇妙なものに出会うことになる。
それは、仔実装の死体であった。
2
それは、桜の樹の根本を掘った時の事だった。
テチ程の中実装の遺体を埋めるには、それなりの深さが必要になる。
男は物置にあったスコップを使い、何かにとり憑かれるかのように、桜の樹の根本を掘りつづけた。
掘り始めて数分も経たない頃だった。
ふとスコップが何かの違和感とぶつかった。
石?そうも思ったが、石にしては微妙に柔らかい感覚。
違和感と表現すべき微妙な抵抗感が、土の中から伝わって来る。
男はスコップを放り投げ、今まで掘りつづけた穴を、手で掘り続ける。
そして、男はそれに出会うことになった。
「仔実装……?」
仔実装として認識できたのは、まだ頭巾と前掛けの実装服が損傷せず原型を留めていたからである。
頭巾から覗くその顔の部分は、既に白骨化しており、大きく窪んだ眼窩は、人の頭蓋骨を想像させた。
白骨の経過から言って、1年や2年の昔ではない。少なくとも、3年以上は経過しているだろうか。
だとすれば誰が?
男が居を構えているこの家屋は借家である。
よくある地方都市の沿線から外れた住宅街の築20年は超そうとしている借家であり、
男は約3年前からこの借家を借り住まっている。
可能性としてあるならば、男の前の住人。
もしかしたら、その前の、またその前の住人の誰かが、この桜の樹の下に、この仔実装を埋めた。
わざわざ、他人の住居に侵入し、他人の住居の庭に仔実装などを埋めたりはしまい。
考えれば考えるほど、推測の域は広がるばかりだが、今はテチを葬ってやることが先だ。
そう思い、男は「起こしてしまって、ごめんな…」と、既に白骨化した仔実装に詫びてから、掘り起こした土を再びかぶせた。
テチは、その仔実装が眠る隣の穴に静かに寝かされた。
墓標代わりに、テチテチ★魔法スティックを立て、その土まみれの手で煙草を口にした。
「友達がいるから寂しくないよな」
煙を吐き出しながら、男はテチに語りかけ、桜の樹を見上げた。
桜の樹は、最後の花びらを、まさに散らさんとするところだった。
3
1週間が過ぎた。
男もテチの死のショックから立ち直り、既に元の社会生活に戻っていた。
週末には、テチのトイレや食事用の碗、実装フードから散歩用のリード。
生活の中で、目のつく実装用の器具は全て処分をした。
そういったものが目に入る度に、テチのことが思い出されてしまう。
テチの死を長く引き摺らないためにも、そういった物は早く処分した方がいい。
結果、男の手元に残った物は、あの実装人形だけだった。
こればかりは捨てるのも偲びなく、機会があれば親戚の子にでも譲り渡すつもりだった。
あらかた処分を終え、いつものとおりの生活の戻るには戻ったが、男の視線は、やはり事ある毎に、
庭の桜の方へと目が行ってしまう。
仕事に出かける前にも、帰った時にも、男は桜の樹の前で身を屈め、
一言、二言、生前のテチが生きているかのように語りかけるのが、日課になってしまった。
そんな習慣がついた頃、どうしても男の心に気掛かりなことが引っ掛かっていた。
喉につかえた魚の小骨のような一事。忘れようと思えば忘れてしまっていい程の一事である。
テチの墓前で、語りかける度に、墓標代わりのテチテチ★魔法スティックの隣に目が入ってしまう。
土が一度掘り越されたその場所には、1匹の仔実装がテチと同様に眠っている。
おそらくは、この家を借りる前の住居者が、飼っていた実装石を埋葬したものなのだろう。
弔いのために、この目立つ樹の根元にわざわざ埋めるからには、少なくとも虐待派ではないのだろう。
「……そういえば」
男は家に戻り、箪笥の中を調べ始める。
ここに越して、既に3年以上が経過しているが、確か引越しした当初に取って置いた物があったはずだ。
「あった。これだ……」
それは、よくあるダイレクトメールである。新車の販売を啓蒙する類のそれだ。
捨ててしまえばいいものであったのだが、何故か今日まで取って置いたものであった。
見れば、住所はこの借家であるが、宛先人の名前が男のものとは違っている。
「」野 敏明
おそらくは、この住居の前の住人。住所変更の手違いで、この住居に届いたものだ。
もしかしたら、庭の桜の樹の下に、あの仔実装を埋めた人物であるかもしれなかった。
4
別に、本人を特定したからと言って、どうとなるものでもない。
男はそう理解しながらも、「」野という人物について、気になり始めていた。
仕事の間も、ふと気づくと庭先の仔実装が、何故死んだのかを考えている。
家の中でくつろいでいても、気がつくと、「」野の人柄を考えたりしていた。
男は、頭を掻きながら、答えの見えない問題に、頭を悩ませている自分を自嘲したりした。
「あら、お久しぶり」
男にそう声をかけたのは、近所の愛護派の婦人であった。
男はその週末、テチをよく連れて通った公園へと向かっていた。
公園へ実装石を連れていけば、自然と飼い主同士が他愛もない会話を続ける物である。
男にも、そういった愛護派の知り合いが、自然と何人も出来ていた。
「テチちゃんは残念だったわね」
その日、公園には愛護派の婦人たちがく数人集まり、井戸端会議のような物を開いていた。
「そうそう。うちのチュルーザちゃんに赤ちゃんが出来たの。里子を探しているんだけど、あなたどう?」
「デッフ〜ン♪」
チュルーザと呼ばれた実装石が、目鼻がずれた蛆実装を抱いて、唄を歌っている。
男は丁重にその申し入れを断り、テチが生前お世話になった礼を改めて言い、本題に入った。
「え?「」野さん?」
男がこの公園へやって来た理由は、この愛護派たちの婦人たちに、「」野という人物を知らないかを聞くためだった。
もし仮に、「」野があの仔実装を埋めた本人であり、実装石を飼っていた愛護派であるならば、
この近場の公園によく足を運んでいたはずだ。 この街に住んでいる古参の愛護派であれば、
誰かは「」野の事を知っている人物がいるかもしれない。
「「」野さん? う〜ん……。よくある名前だしね〜」
「あれじゃない?3年前ぐらいに、よくこの公園に来てた…」
「あ、あの若い男の人ね」
「え?知ってるんですか?」
なんと、意外と簡単に、「」野の手掛かりに辿り着く。
「確か、あなたと同じ若い男の方だったから、覚えてるわ」
「そうそう。あなたと同じよ。週末には、よく実装石を連れて来られていたわ」
「やはり、「」野さんも実装石を飼っていたんですね」
どうやら、この年の婦人層には、若い年齢の男の愛護派の記憶は、まだ新しいらしい。
「でも、「」野さんも、この街を離れたのよね…」
「やっぱり、あの事件以降、引越しされたらしいわね」
「え?事件?」
会話の流れにそぐわない「事件」という言葉を聞いて、眉をしかめる男。
「そうね。あれから、もう3年も経つのね……」
「………………」
急に口を閉ざし始める愛護派の婦人たちに訝しながらも、男は「」野の情報を聞き出すために、懸命に問いを重ねる。
「ちょっと用事を思い出したわ。私、失礼しますわね」
「………さ、チュルーザちゃん、帰るわよ」
「デフー」
婦人たちは、男の問いを避けるかのように、三々五々、その場を後にする。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
男の問いかけにも、口を濁すようにして、頭を下げつつ、気まずくその場を後にして行く。
それは、まるで忌まわしき記憶に触れまいとするようにも見えた。
『3年前の事件』
そう言われると、男にも思い当たる節はある。
丁度、この街に越してくる前に起こった事件。それは全国記事にもなり、前日ワイドショーが報道し続けた事件だ。
既に3年の時が経過し、すでに「事件」は風化していたように思えたが、それはこの地に住まう愛護派の胸には、
拭い去れない「事件」であった。
男は、家に戻り、インターネットでその「事件」について調べる。
その「事件」は、簡単にGoogleのトップで特集ページが表示された。
【双葉市、実装石による幼児捕食事件】
そのページには、警察も公開していない写真なども掲載されており、詳細にその事件の事が綴られていた。
5
それは、平和な公園の昼下がりで起きた。
その公園に住まう野良実装が、空腹のため、自分よりも劣る対象への捕食を行った。
それは、実装社会のヒエラルキー上、至極普通の行動であった。
実装石は、群れることはしない。
例外的に、公園という閉じられたコミュニティー内では、文化的な構成を持つに到ることもあるが、基本的には、
実装石は「家族」という小さな単位で、独善的に生きる種である。
親実装は、本能的に子孫である仔実装を育てるために、餌を与え、安全な寝床を提供する。
親実装は、睡眠すら惜しみ、仔実装のために、朝から晩まで餌場を巡り、少しでも己の遺伝子を後世に伝えるべく、
栄養価の高い餌を選別し、それを仔のために、巣へと持ち帰る。
餌が豊富な季節においては、その地域に住まう「家族」に充分な餌が行き渡る。
そんな季節はいい。互いの実装石たちは、干渉すらしない。
だが、餌が充分に手に入らない季節が訪れると、実装石たちは途端に獣としての本性を曝け出す。
それが、仔食いである。
その対象は、他の実装石の仔実装から、果ては自らの仔実装にまで及ぶ。
生物学的に優れた遺伝子を残すため、次世代へ一つでも多くの優れた血を残すために行う、自然界で培った淘汰の手法である。
そんな実装石が、この平和な公園の昼下がりで行った行動は、至極、当たり前の行動であった。
公園の中では、野良実装石の数は増え、頭分に廻る餌の量は、必然的に減って来ていた。
折りしも、市制が近所の生ゴミ回収の徹底を厳しくした時とも重なった。
腹を空かせた仔実装たちの空腹を癒すため、自ら力の劣る対象へと、その食指を向け始めたのは、自然の流れだった。
繰り返して言うが、それは自然界の中では当たり前の行動である。
ただ問題は、それが街中の公園の中で、しかもその対象が「人間」の赤子に対して行われたことであった。
警察が呼ばれ、駆除隊が入った。
愛護派の多いこの街の中で、腹を据えかねた虐待派たちが暴徒と化し、ここぞとばかり、野良実装たちを駆除した。
中には、街の愛護派の一部が、それを阻止せんとし、暴徒の中に身を投じたりしたが、その甲斐空しく、
公園の野良実装たちは駆除されることになる。
事件はこの公園の禽獣駆除により、終焉を迎えたかに思えたが、根は以外と深かった。
連日、実装石たちの危険さを伝えるワイドショー。
世間の声は、一気に実装駆除の流れへと狩り立てる。
市町村は、予算を積極的に野良実装駆除へと編成し、全国規模での実装石駆除の流れに向った。
実装石を飼う飼い主たちは、外出を避け、ひたすら家に篭る日々が続く。
虐待派たちは、我が物顔で公園を闊歩し、草陰に実装石の姿などを認めると、見せつけのように体を切り刻んだ。
野良実装を駆ることこそが正義。今まで白眼視されて来た虐待派や虐殺派に、世間の風は追い風のように吹き始めていた。
その傾向は、この事件の発端となった双葉市では、より一層エスカレートしていた。
野良実装は、悉く駆り尽くされ、その食指はついに飼い実装にまで及んでいったのだ。
飼い主に外出を禁じられた実装石。連日、飼い主に泣きついて訴えているのだろう。
実装部屋の窓から外を覗くその両目は、泣き腫らしたように真っ赤である。
退屈な家の中。そんな実装石の視界に、庭の茂みから仔実装の人形が見え隠れしている。
「デッ!? デデッ!!」
ただでさえ刺激に餓えているのだ。
茂みから奇妙な仔実装の人形がぴょこぴょこと動いているだけで、居ても立ってもいられなくなる。
大抵の実装石は、ぺしんぺしんと窓を叩くだけだが、中には器用に窓の鍵を開け、外に抜け出す実装石もいる。
抜け出した実装石は、仔実装の人形を追い、行方不明となる。そして数日後、
飼い主の家にクール宅急便で首なし死体が送りつけられた。
外出を禁じられ、髪が抜けるなどストレスで病気になった飼い実装石をリードに繋ぎ、しぶしぶ散歩に連れ出す。
すれ違ったバイクに、そのリードごと飼い主の手から奪い去られる。
飼い実装はバイクに引き摺られながら連れ去られ、バイクがスピードを上げるたびに、
悲鳴と共に実装石がアスファルトの上を高くバウンドする。
街中のアスファルトには、所々に赤や緑の血と糞の筋が、縦横に描かれていた。
常軌を逸していた。非日常だ。
心が折れた愛護派たちは、次々と街を去った。
行き過ぎた虐殺は、やがて警察の取り締まりを受け、次第に沈静化していき、 時は流れ、事件の記憶は薄れて今に到っている。
しかし、この街の愛護派には、この事件により、拭い去れない傷を植えつけていたのである。
これが、「双葉市、実装石による幼児捕食事件」の概要である。
事件と舞台となった「双葉公園」は、よくテチを連れて行っていた公園である。
昼間、愛護派の婦人たちに会った場所こそが、その「双葉公園」である。
愛護派の婦人たちを見ても、それは呼び起こしたくない忌まわしき記憶に違いなかった。
この街に住んでいた多くの愛護派たちも、人間が持つ残虐性に絶望し、この街を人知れず去った。
おそらく、「」野という人物も、きっとこの事件に出会い、そして、この街を去った一人なのだろう。
「………………」
今更、傷口を掘り返すことをしても、それは誰も喜ぶではあるまい。
「」野という人物が、実装石を飼っており、おそらく仔実装をこの樹の下に埋め、そして街を去った。
今の男にとっては、それだけの事が分かれば充分だった。
喉の奥に刺さった小骨は、男の好奇心が満たさると共に何時の間にか消え去っていた。
男は一人合点が入ったように、そのページを閉じた。
6
数週間が過ぎた。
男の生活には、既に日常が取り戻されていた。
あれほど気になっていた仔実装の死体や、仔実装を埋めたであろう「」野の素性、そして3年前の「事件」についても、
己の中で納得のいくところまで達していた為、次第に意識の中からも消え去っていた。
桜の花が散った後、緑の葉が茂り出し、気候も徐々に暖かくなっていく。
4月も終わり、大型連休も迎えようとしていた頃、男は初めてテチの夢を見た。
テチが死んでから、何故か男はテチの夢を見ることができなかった。
その日、男が見た夢はとてもリアルで、本当にテチが生きて側にいるかのような錯覚すら覚えた。
「おーい。テチー。あまり走り回ると危ないぞー」
「テチィィィーーッ!! テチィィィーーッ!!」
テチは満面の笑みを浮かべて、庭を駆け回っている。
それを見つめる男が、テチに向って叫んでいる。
庭を走り回るテチは、頬を紅潮させ、元気一杯、声を上げながら駆け回っている。
「テェ!? テチィ〜?」
みれば、茂みから1匹の仔実装が顔を出した。
「テチュゥ〜〜ン♪」
「テチィィーー♪ テチィィーー♪」
その仔実装とテチは、互いの手を取り合い、庭を所狭しと駆け回る。
「ははは。テチ。友達が出来たんだな」
テチと遊んでいるその仔実装の実装服は、土汚れか真っ黒に汚れていた。
その仔実装は、テチの隣に眠るあの仔実装だろう。微笑ましい目で見つめる男は、何故かそう思えた。
「テッチィィィィィーーーーーーーーッ!!」
「テチュゥゥ〜〜ン♪ テチュゥゥ〜〜ン♪」
生前のテチは、母に依存していた性分のためか、積極的に他の仔実装と関わりを持つという機会が少なかった。
公園で友人と呼べる他の仔実装と遊ぶ。そんな当たり前の事が、テチの記憶にはない。
夢の中ではあるが、テチはその時代の経験を取り戻すかのように、懸命にその仔実装と庭を駆け巡った。
夢の中だ。
どれくらいの時間が経ったのか定かではない。
ぼんやりとテチの姿を追う男の目に、見慣れぬもう一つの影が映っているのに気がついた。
「チュワッ!! チュワッ!!」
「テチュゥ〜〜〜ン♪」
「テチィ♪ テチィ♪」
「……………………」
その影は1つ、また1つ増えていき、気がつけば、テチの周りに4匹の仔実装が舞うようにして駆け廻っていた。
「チュワッ!! チュワッ!!」
「テチュゥゥ〜♪」
「テッチィー!! テッチィー!!」
「テチィ♪ テチィ♪」
「ウポポッ!! ウポポッ!!」
「…!」
目が覚めた。
暗闇の中、壁時計の正確に時を刻む音だけが、部屋の中を木霊している。
やけにリアルな夢だった。
寝汗を掻くような悪夢ではないが、夢にしてはリアルすぎた。
今、庭を覗けば、先ほどまでのテチと仔実装たちが、未だ駆け回っているのではないか、
そう思われるほど、リアルな夢であった。
仔実装たち?
男はそう自問する。
あの夢には、葬られたテチの隣に眠る仔実装らしき仔実装が、元気に駆け回っていた。
それはいい。だとすると、残りの2匹・・・いや、3匹の仔実装は一体何だったのか。
所詮、夢だ。だが、その時の男にとって、それは夢で済まされるものではなかった。
あの仔実装たちの表情や実装服の皺まで、鮮明に記憶している。本当にあれは夢だったのか。
夜も明けぬ丑三つ時である。
気がつくと、男は庭に降り立っていた。
あの夢に導かれるようにして、男はテチが眠っている桜の樹の下に立っていた。
煌々と月明かりが照らす晩春の薄暗い闇の中。
墓標のテチテチ★魔法スティックの隣に、先日掘り起こされたばかりの土盛りが、まだ新しい。
そこへ身を屈めると、昼間では気付かなかったものに、男は気付く。
最初に暴いてしまった仔実装の土盛りのその隣だ。
注意しないとわからない程度だが、周囲に比べると、斑に生える芝が薄い領域がある。
まるで、そこは数年前、何かを埋めるために、掘り起こしたかのような、そう見えてもおかしくない領域。
先ほどの夢のせいもあったろう。
男は、何かに取り憑かれたかのように、土を掘り起こしていた。
まだ肌寒い晩春、しかも夜も明けぬ夜半に、庭の土を黙々と掘り起こしている。
奇行とも言える行動だ。だが、男には確信的なものがあった。
そして、土を掘り起こしてわずか数分。
男は、新たな仔実装の遺体を見つけることになる。
「虐待派か…」
それは、そう男に思わせるほど、遺体の損傷は激しかった。
テチの隣に眠る仔実装は、実装服や頭蓋骨を含めた五体はそのまま残っていたが、この遺体は違った。
土塊の中、白い骨らしき物と緑の布切れにかかった土を、丁寧に指で取り除く。
遺体は合計で3体のようだ。
頭蓋骨が3つ何とか認められるからこそ、遺体が3つと判断しただけであって、五体が満足な実装石など1体も、
そこにはなかった。
頭巾も実装服も引き裂かれたかのようにボロボロであり、頭蓋骨も何か齧られたかのように欠けている物もある。
しかし、夢の中のテチを囲う仔実装の数と、必然的に数は合った。
引き続き、暗がりの中、ポケットのライターで火を灯し、注意深く遺体を調べた。
よく見れば、こう何か猫科か犬科の小動物に、襲われたような遺体の破損状況である。
破損した頭蓋骨や残った骨についた鉤爪のような傷跡。
最初は、虐待後にここに埋められたかのような心象を覚えたりはしたが、この仔実装たちの死因は、きっと別のものだ。
猫か何かに襲われたかもしれない。
「…………………」
暫し遺体を見つめながら、先ほどの夢が、まさしく正夢のように暗示されていたことに、何か薄ら寒い物を感じた。
この遺体も、「」野が埋めたものなのだろうか。
遺体の状況からして、最初に暴いた仔実装の遺体と、そう年月が変わらぬ物だと察しはつく。
しかし、既に自分の中では、「」野という人物に関しては、過ぎたものになっているはずだ。
今更、ぶり返してもな。男はそう思いながら、ポケットから取り出した煙草を咥え、暴いたばかりの墓の土を戻そうとした。
その時だった。
一陣の晩春の風が、頭上の桜の樹を凪ぎ始めた。
男の顔のすぐ側を、ひらりと一枚の何かが舞い降りる。
それに気付いてか、男はその舞い降りた何かを指ですくい上げ、そして目を疑った。
燦々と降り注ぐ月光の中、男は頭上の桜の樹を見上げた。
「………なんてことだ」
それは遅咲きの桜。
桜の樹自体は、すでに新緑茂る葉を並々と茂らせているのだが、その1部。
ほんの一枝だけに、桜の花が咲き誇っているのだった。
呆けたように、男はその場に立ち竦むしかなかった。
男の咥えた煙草の火が、まるで暗がりの闇に舞い込んだ1匹の蛍の尾の光のようにも見えた。
7
翌日。
男は遅咲きの桜をリビングからまじまじと見つめていた。
毎年、春には桜の樹を眺めていたりはしたが、こんな事はもちろん始めてである。
こういう事あるだろう。ただそれだけの事だと、片付けさえすれば済む事だが、そうもいかなかった。
テチを弔った桜の樹の花が咲いた。それも、「遅咲きの桜」である。
家族同様の実装石を弔った樹に、ありえない変化が生じたのだ。あの花は、テチが咲かせたに違いない。
素直に考えれば、そう思うこともできる。男も、あの桜はテチが咲かせたに違いない、そう思っていた。
そう思えるからこそ、あの桜がとても愛着のある物に見え、生きたテチに再び出会えたような錯覚も覚え、事ある毎に、
桜の樹に見入ったりした。
しかし、気になる点もあった。
昨晩、新たなに発見した仔実装の遺体。合計4匹の仔実装が、テチを埋葬する前に桜の樹の下で眠っていることになる。
今の燦々と咲き誇る「遅咲きの桜」の枝を見るにつれ、もしかして、この「遅咲きの桜」が咲いたのは、
「初めて」の事ではないのではないか。
男は、自然にそういう疑問を抱き始めていた。
もしかしたら、「」野が仔実装を埋めたときにも、この「遅咲きの桜」が咲いたのなら。
「」野はそれを知り、確信的に仔実装の遺体をこの桜の樹の下に弔い続けていたのなら。
ならば、一体、何のために。
一時は興味を失いかけていた「」野の素性であるが、この事象を前に、男は「」野に会い、そして確かめたくなって来た。
この桜のこと。仔実装の遺体たちのこと。そして、あの「事件」で何があったのか。
男は庭へと降り立つ。
庭の桜の樹を見上げると、その1部の見事に咲き誇った桜が、テチの満面の笑みのようにも見て取れた。
ひらり、ひらりと風に乗り、桜の花びらが1枚、1枚と男の頭や肩に舞い降りる。
それはテチが男に何かを語りかけているかのように思えて仕方がなかった。
折りしも、世間は5月の大型連休に入る頃であった。男は本格的に、「」野の所在を探し始める事にした。
8
男は、まず「双葉公園」に出向くとにした。
「双葉公園」は、あの事件の現場であり、男の家から徒歩で20分程の距離に位置している。
都市計画の一環として、住宅街の外れに建設されたこの公園は、自然と緑の豊かな広大な空間を持ち合わせた公園であった。
広さにして、200坪近く。地域の飼い実装石にとっては、テーマパークに匹敵する遊び場とも言えた。
男の家から「双葉公園」は、仔実装のテチの足では些か遠い場所に位置しているため、そう何度も連れて来ることは出来なかったが、
何回かはテチを抱いて、この公園に訪れたこともある。
その日、男が訪れた「双葉公園」には、活気が溢れていた。
大型連休の始まりもあってか、家族連れの姿もちらほらと見える。
飼い実装を連れて、散策を楽しむ顔見知りの愛護派の姿も、何人か見つけたりした。
中央には、噴水と時計台。
それを囲む芝生と等間隔に置かれたベンチ。
休日には、近くの住宅街に住む親子連れなどが、芝生の上で弁当を広げる姿を見ることもできる。
公園の中心を囲うように茂る木々たちが、心地よい新緑の匂いを、公園を訪れた人たちの鼻腔に運ぶ。
またその奥には、小さいながらも森や池などもあり、小さな自然の恵みがそこには存在していた。
さすがにあの事件以降、野良実装がこの公園に爆発的に繁殖することはなかった。
定期的に行政が、野良実装の駆除を行っているのだろう。
計画的に整備・管理されたこの公園には、ゴミを漁る野良実装や、茂みの中を蠢く野良実装の姿なども目にすることはない。
男はこの双葉公園を、1時間ほどかけて、ゆっくりと散策する。
緑と自然に囲まれた公園は、晩春の涼しい空気の中に、初夏のような暖かい日差しを交えた独特の空気を、醸し出していた。
小鳥たちの鳴き声と、子供たちの嬉々とした声が、公園に響き渡る。
ベンチに身を寄せ、目を瞑ってしまえば、そのまま寝てしまいそうな、長閑な雰囲気がこの公園には充満していた。
あの事件が行われた現場らしきところには、市が建設しただろうモニュメントが、そんな事件はなかったと言わんばかりに
建立されている。
今の「双葉公園」では、あの忌まわしき「事件」の記憶などは、過去の出来事になってしまっているらしい。
既に事件は風化していた。この公園の姿を見る限りは、あの「事件」は、確実に過去のものとなっていた。
そんな長閑な公園の中、男は敢えて、その事件を堀り返そうとしている。
道すがら出会う愛護派たちに、3年前の記憶を尋ねても、その答えは決まって否定的なものばかりだった。
「もう、あの事件は忘れたいの。ごめんなさいね」
「私はあまり「」野さんと面識がなかったわ。お役に立てなくて御免なさい」
「」野の事を覚えている者も、皆悉く、口を塞ぎがちである。
逆に「何故、「」野の所在を探すのか」と問いただされたりもした。「桜の樹」の話を出そうとも、どうも説得力を欠いてしまう。
悪戯に時間だけが経過し、大した情報を得られぬまま、無為な時間が過ぎていく。
双葉公園に足を運べば何とかなる。その考えが甘かったと思い知らされ、焦りを見せ始めた、そんな時だった。
最初は自分の気が高ぶっている為だと思っていた。
「」野の所在を突き止めたい。そんなプレッシャーのために感じている物だと思っていた。
それは、首筋に向けられる異様な違和感であった。向けられた本人しか表現しきれない、微かな異様な感覚。
無意識のうちに後ろを振り返るが、そこには公園の茂みや森が広がるだけである。
その感覚は、この公園にいる間、絶えず男に纏わりつくように、付き纏っていた。
その感覚は、そう。言うなれば、視線。
公園にいる間、絶えず誰かに監視されている。そう表現できる感覚である。
再び、無意識のうちに後ろを振り返るが、やはり、そこには誰もいない。
「気のせいか…」
そう思いながらも、公園で井戸端会議を続ける愛護派を見つけては、「」野のことを訪ねるも、その視線を感じて止まない。
そして、それは公園から出ると、ピタリと止む。再び、別の入り口から公園に入ると、暫くしてその視線を再び感じ始めるのだ。
「……………」
男はある事を試みる事にした。
この公園は森林部は、池を中心に構成されていた。
池を絶えず右手に構えて進路を取れば、必然的に視線を感じる方向性はそれ以外となる。
つまり、死角を作り、逆にその視線の主を誘いこむ作戦である。そして、その作戦は、案外効果的に発揮することになった。
「…………!」
独特の感覚。
池を右手に構えて散策を始めて数分。
男は、この公園の中で感じていた違和感。つまり視線を感じ始めた。
気付かぬ風に、わざと口笛などを鳴らしながら、池の方面を眺めたりする。
と同時に、男は駆けていた。
今は、はっきりとわかった。
この視線の主は、前方のあの茂みだ。
あの茂みの中に、この公園に入ってから感じる視線の主がいるはずだ。
そう思い、茂みへ駆け寄り、その茂みの中を覗き込んだ。
「デスー」
間の抜けた声が聞えた。
「へ……、実装石?」
茂みの中で蠢いていたのは、1匹の実装石だった。
野良実装?そう思い、男は茂みの中を覗くと、「デッ!?」とうめく1匹の成体実装石と目が合った。
「……飼い実装か」
身なりは、泥と草の葉に塗れた薄汚い格好であるが、首には立派な赤い首輪がついていた。
ここにいる愛護派たちは、この公園の中でリードで実装石たちをつなぎとめる者は少なく、
実装石にしたいようにさせている飼い主は多い。この成体実装石も、その中の1匹なのだろう。
「レチ〜!! レチ〜!!」
見れば、その成体実装石は、手に親指実装石を抱えていた。
既に目の前の男に興味を失ったのか、その成体実装石は、目の前の草花に、首を傾げて魅入っている。
男は、その場でしゃがみ込む。
あれだけピリピリと視線を感じていた主が、コイツだったとは。
気が張っていたとは言え、何だか自意識過剰のような感覚に囚われ、自嘲するしかなかった。
「おまえ一人か?飼い主はどこだ?」
捨てておけばいいのに、久しく実装石と触れ合ってなかった男は、ポケットの中の金平糖を取り出した。
何かの役に立てばと、テチのオヤツの金平糖を、幾つか持って来ていたのだった。
男に対して興味を失っていた成体実装石が、金平糖の姿を確認するや否や、「デデッ!!」と反応をする。
「デッ!? デデッ!?」
食べていいの?と言わんばかりに、手の平の金平糖と男の顔を交互に見合う。
「ああ。いいぞ。喰え」
男が成体実装石の手の平に金平糖を置くと、成体実装石はクンカクンカと臭いを嗅ぐことに躍起だった。
そして、その金平糖を口に入れ、2度3度口の中で転がした後、「デペァ!!」とそれを薄緑の唾液と共に、
男のズボンに吐き返した。
「…………………」
どうやら、特価品で求めた金平糖の味が、その飼い実装には、気に食わなかったらしい。
あまり慣れないことはするべきではない。そう思った男は、今日は公園を後にすることにした。
男は、本日感じた視線の持ち主であろう実装石をそのままに、そこを立ち去る。
帰りしな、振り返れば成体実装石は、草むらの中で地面に蠢く蟲を見つけては、それを掴んで口に入れ、
嚥下を繰り返していた。
9
翌日、男は「」野の所在を知るために、賃貸業者にも話を聞いてみた。
この家の管理会社なら、元の住人である「」野の所在を知っているかもしれない。
無論、仔実装の遺体や桜の樹などは伏せて、もっともらしい理由をつけてみたが、
個人情報が厳しく取り扱われる背景もあり、所在を知っていても知らせることは出来ないという。
賃貸業務を委託している大家自体に、同様の事を尋ねて見たが、結果は同じであった。
近所の隣人などにも尋ねてみた。
最初は皆訝しがったが、「」野の名前を出すと覚えているという隣人も少なからず居たが、
皆口を揃えて言うのが、3年前の「事件」である。
「あの事件があった頃よね。引越しされたのは」
「聞いた話では、飼っていた実装石が殺されたらしいわよ」
「ショックだったのよね。あの事件後よ、すぐに引越しをされたわよ」
聞く話全てが事件にまつわる話であり、誰もその後の「」野の所在は知らないという。
馴染みの実装ショップへも顔を出してみたが、大した手がかりを得ることはできなかった。
八方手を尽くして、何も情報が得られぬ男は、気がつけば「双葉公園」のベンチで黄昏れていた。
公園でも再び、愛護派の知り合いを見つけては、声をかけ、「」野という人物に覚えがないかを尋ね廻る。
中には、偶然「」野のことを覚えている者もいたが、結果はやはり期待するものではなかった。
公園の森のベンチに座り、目を閉じていると、昨日感じたあの感覚が蘇ってきた。
誰かに監視されているような感覚。チリチリと首に差すような視線のような感覚。
「デスー」
男の足元から声がした。
見れば、昨日出合ったあの成体実装石である。
「レチー!! レチー!!」
相変わらず、手には親指実装石を抱き、男の足元に纏わりついて来る。
「なんだ、おまえ。今日も来てるのか」
「デデッ!? デスァッ!! デスァッ!!」
男の靴に興味を持ったのか、成体実装石は親指実装石を地面に投げ捨て、男の靴を嗅ぎ続けている。
次いで、臭いにも飽いたのか、男のズボンを引っ張り、「デスーデスー」と忙しない。
「なんだ、俺は忙しいんだよ。飼い主の所に戻れよ」
「デスー!! デスー!!」
どうも実装石に好かれる体質らしい。
またそれを無碍に断りきれないのが、男の中の自覚せぬ愛護派の血だろうか。
男は、成体実装石に連れられるまま、公園の森の中へと連れ込まれる。
「デスー!! デスデスー!!」
「ああ。樹の洞だな。ん?なんだそりゃ」
「デスァ!! デスァ!!」
成体実装石が指差した樹の洞から何かを取り出し、自慢をするかのように、それを男に見せつける。
「なんだ、おまえの宝物か」
「デスー!! デスー!!」
「わかった、わかった」
見れば、真っ二つに割れた実装フォンだ。
成体実装石は、自慢の宝のように、それを男に見せつける。
男がそれに触ろうとすれば、逆に手を引っ込め、大事な宝を男に触らせまいと必死である。
そして、それを再び樹の洞に仕舞い込むと、次いで成体実装石は、公園の森の道なき道を進んで行った。
「おい、待てよ」
「デスー!! デスデスー!!」
「ん。なんだこりゃ」
成体実装石が指差すのは、不揃いな石が詰まれていた一角であった。
近づけば、それは誰も使われることもない古井戸。
「へー。こんな茂みの奥に井戸があったのか」
成体実装石は、井戸を覗き込み、見えない暗闇の奥を、デーと呟きながら、涎を垂らしている。
その後、成体実装石は、男を公園の中へと連れまわした。成体実装石は、この公園の地理によく精通していた。
手の中の親指実装が、公園のあちこちを移動するたびに、レチー!! レチー!!と嬌声を上げている。
男にとって、ここ数日の手詰まり感により、心に鬱蒼とした感情も芽生え始めていたところだった。
このタイミングで、この無垢な成体実装石が、男の心を和ませ、少なからず活力を与えてくれたのは事実であり、
正直救われた感も否めなかった。
「デスデスーッ!!」
「おい。もうそろそろ日が落ちるぞ。おまえの飼い主も心配してるだろ」
「デスッー!! デスデスゥーッ!!」
男の言う通り、既に時は夕刻を過ぎていた。
いくら飼い主が、この公園で目を離しているとは言え、そろそろ飼い主も心配している頃に違いない。
「あ、こら。走るんじゃない」
「デスッー!! デデッ!!」
駆けている成体実装石が、樹の根に足を取られ、派手に躓いた。
「デェェェッ!! デェェェーーーンッ!! デェェェーーーンッ!!」
「レピャァァァァッ!! レピャァァァァッ!!」
「あーあ。走り回るからだ」
躓いた成体実装石は、顔面を派手に地面に叩き付けられたのか、大声で泣き始める。
手にしていた親指実装は、その勢いで宙に投げ出されてしまい、これまた大声を出して泣いている。
「ったく」
テチもそういえば、こうしてよく公園で躓き、男を困らせたものだった。
男は手馴れた作業で、成体実装石を立たせて、実装服の泥を払ったり、ずれた頭巾を直してやったりした。
「デェックッ!! デェックッ!!」
「ほら。大事な親指だろ。大事に持ってろよ」
「レェェェェーーーンッ!! レェェェェーーーンッ!!」
その時だ。
泣きじゃくる成体実装石のずれた頭巾を直してやった時である。
「ん?」
それは頭巾の中から見えた、大きな傷であった。
「なんだ。おまえ。頭にすげぇ傷があるな」
「デスンッ!! デスンッ!!」
ずれた頭巾から覗いたその頭の側頭部。そこに広がる亀裂のような傷跡に、男は気がついた。
それは先ほど躓いた時に出来たような傷ではない。傷自体は、遠い昔に負ったものであろう。
生死に関わるような大きな事故にあったような傷跡である。
「おまえ… 昔、大きな事故にでもあったのか…」
「デェックッ!! デェックッ!!」
「あーあ、わかった。わかった。飼い主を探してやるから」
男は、泣きじゃくる成体実装石の頭巾を真直ぐに整え、その場で立ち上がって左右を見やった。
丁度、その茂みから見える開けた広場に、近所の顔見知りの愛護派たちが、何人か立ち話をしている所だった。
男は、茂みを掻き分け、その愛護派たちへと駆け寄っていく。
「あ、すいません」
「あら、どうしたの」
「どうやら、迷子の飼い実装に出会っちゃって」
「あら。何処の子かしら」
男は、馴染みの愛護派の婦人に事情を述べ、今日この公園に来ているで迷子の実装石が居ないかを尋ねてみた。
しかし、聞けばここに居合わす愛護派たちの実装石は、銘々目の届く範囲で遊んでいるという。
「どの子か見れば、わかるかもしれないわ」
双葉公園に訪れる愛護派たちは大抵が常連であり、飼い実装石を見れば、大体どの家の子かはわかるという。
結局、あの泣いている成体実装石を、その場に連れてくることになった。
「おーい。こっちに来い。あのおばさんが、おまえの飼い主を見つけ…」
元の場所に戻ったが、その場所にはあの成体実装石は既にいなかった。
「あれ… どこ行ったんだ、アイツ」
途方に暮れる男。
公園に差す赤い夕日の光の中、近くの茂みや遊具の裏を調べても、あの実装石と親指の姿は、何処にもない。
「あれ。どうしたの?」
「あ、いや。アイツ、居なくなっちゃって」
「あら……」
男は、狐につままれたような顔で頭を掻きながら、その夕日の中、長い影を双葉公園の落とすしかなかった。
10
大型連休は、既に中盤に差し掛かっていた。
しかし、「」野の手がかりらしい手がかりすら、掴める事はできていなかった。
この年の大型連休は、気候にも恵まれ、まるで初夏に近いような気温が連日続いていた。
日差しも暖かく、行楽にはうってつけの気候だった。 庭の「遅咲きの桜」は、その熱気に当てられてか、
もう既に散り始めていた。地面に広がる桜の花びらの数は、日に日に増える一方である。
散りゆく桜の花を見るたびに、どうもテチが哀しんでいるように感じて他ならない。
男は不思議とそう感じるようになっていた。
正直、男は焦り始めていた。綾小路の家に連絡を入れたのは、そんな時だった。
「綾小路さんなら、何か知っているかもしれないわよ」
双葉公園で出会った愛護派の婦人の一人がそう教えてくれた。綾小路であれば、「」野を知っているかもしれない。
そう言うのである。 綾小路とは、テチを飼っていた元・飼い主である中年女の名である。
今は、理由あってこの街を離れ、彼女の実家に引越しをしているが、
テチが死んでから、1度電話でその報告をして以来、中年女とは疎遠になっている。
男はまさに藁にも縋る思いで、中年女に電話を入れたのだった。
「覚えているザマス。サクラちゃんの飼い主ザマス」
「………!」
思いもかけず、電話口の中年女は、「」野の飼っていた実装石の名を、男に告げた。
「懐かしいザマス。「」野さんのサクラちゃんは、ほんとに賢い実装石だったザマス」
「サクラ…」
中年女が告げる「」野の飼っていた実装石の名を聞き、男はリビングから覗く庭の桜の樹を見つめた。
「サクラちゃんはとても子供思いの優しい実装石で、それは躾に厳しい母親だったザマス」
「子供…ですか」
掘り起こした仔実装たちの遺体を思い浮かべ、男は中年女に続けて質問を重ねた。
「綾小路さん。「」野さんの仔実装は、何か不慮の事故で亡くなったりはしませんでしたか?」
「何ザマス?いきなり」
「例えば、犬か猫に襲われたり、その死体を庭に埋めたりとか」
「………ごめんなさいザマス。そこまではお伺いした事はないザマス」
「……そうですか」
「どうしたんザマス?久しぶりにお電話を戴いたかと思えば、「」野さんの話だなんて……」
男は、近所の隣人や愛護派たちには語れなかった事情を、中年女だけには電話口で包み隠さず話す事ができた。
テチを通じ、男は中年女だけには、ある種の共通できる何かを持っていたからに違いない。
中年女も、男が語る非現実的な話に、懐疑的な声色を現すこともなく、その話に相槌を繰り返したりした。
「……申し訳ないザマス。私もそう「」野さんとは懇意にしてなかったザマス。その話を聞いたことはないザマス」
「そうですか…」
「でも不思議な話ザマス。カトリーヌちゃん(テチの旧名)を埋めたお墓から、桜の花が咲くなんて」
「でも、もう散りそうなんです」
「え?」
「この陽気です。日に日に桜の花びらが散っていくんです。桜の花びらが1枚散る度に、テチが何か叫んでいるような気がして」
ここまで行くと、神経衰弱に近い物も感じられるが、男にとっては切実な事情であることは、中年女にも充分理解できた。
「私が知っている限りのお話なんザマスが……」
そう切り出して、中年女は自分が知っている限りの「」野の情報について語り始めた。
「」野は、3年前の【双葉市、実装石による幼児捕食事件】において、大きな怪我を負ったらしい。
公園に大挙した虐待派の暴徒と乱闘になったという。風の噂では、あの公園の野良実装の中に、
男が飼っていた「サクラ」という実装石が、紛れ込んでいたらしく、サクラを守るために、暴徒を止めるべく、
公園の中に身を投じたという。怪我は、頭を数針縫うほどの重傷だったらしい。
双葉公園は事件後、数週間は封鎖されたが、その開放日に、双葉公園で男の姿を見かけた愛護派の婦人が居たという話であった。
公園の中央で、血まみれの何かを手にし、肩を震わせて泣く男の鬼気迫る男の姿に、婦人は声すらかけられなかったという。
事件後、「」野を見かけたのはその日限りであり、その数ヵ月後には、既に「」野は、この土地を離れていたらしい。
折りしも、この街の虐待派が我が物顔で、街中の野良実装石たちを狩り尽くし、その食指が飼い実装までに及んだ頃であり、
「」野の他にも、多くの愛護派たちが、この街を去った頃であったという。
「きっと、「」野さんは、この街を怨んでいるザマス」
「………………」
「あの事件は、私達実装石を愛する者たちにとって、思い出したくもない事件ザマス」
「………………」
「きっと「」野さんにとっても、思い出したくない記憶であるはずザマス」
「………………」
電話を切った後、夕方まで呆けたように、男は散り行く桜を見つづけていた。
公園で佇んでいた「」野。
肩を震わせて泣いていたということは、この樹の元で眠る仔実装たちが、あの事件の犠牲者だったのか。
夕焼けの朱に染まった散り行く桜の花びらを見つめながら、男は想う。
例え、「」野が所在がわかったからと言って、己の好奇心を満たしたいがだけに、
他人の触れてはいけない記憶を踏みにじるのは如何な物か。
夕焼けの吹く風は、昼間の陽気が嘘みたいに肌寒く、湿気を含んでいた。
男は煙草を吹かしながら、縁側で桜の樹に話しかけていた。
「頑張ったんだけどな、「」野さんは見つからなかったよ」
「………………」
「何かして欲しいって気持ちは伝わるんだけどな」
「………………」
「すまないな、テチ。時間切れだ」
「………………」
この日の天気予報は、明日、この地方に雨をもたらすことを告げていた。
もう遅咲きの桜の花びらは、既に数えるほどにまで散ってしまっている。
明日、いや今晩の未明から振るであろう雨によって、この桜の樹の花びらは、全て散り終えてしまうだろう。
「じゃぁな。テチ」
「………………」
「短い間だったけど、再びおまえに会えたような気がして、俺は楽しかったよ」
「………………」
縁側から腰を上げ、軽くズボンを払い、リビングに戻る男。
雨戸を締め、残りあまった休暇をどのように使うべきか、無理やり思考を変えようとした矢先、家の固定電話が鳴った。
実家からか。おそらくそうだろう。大型連休なのに帰らないのはどういうことだ。
そういう叱りの声が、両親から聞かされるものだと思い、男は固定電話を取った。
「あ、○○さんのお宅でしょうか?」
「はい… そうですが」
電話口の声は、実家からではなく、女性の声だった。
声の質からして、若い女性のものではなく、かなり年齢的なものを感じさせた。
「すみません。「」野のことをお探しだと、ご近所の方からお話を伺ったので…」
電話口の声は、淡々とそう言った。
11
「それで、「」野の事は、どこまでご存知なのですか?」
黒檀の机の前で、その初老の女性は凛とした声で、男に向かい、そう語りかけていた。
年の頃は、もう60を越えているだろうか。
上流家庭の婦人を思わせるような高貴な雰囲気を醸し出す女性は、居住まいを正して、男に向かい合っている。
「すみません。いきなり押し掛けてしまいまして…」
黒檀の机の反対側には、男が正座で向かい合っていた。
通されたのが、この和室の客間である。替えられたばかりの畳の新緑のいい香りが、男の鼻腔にも届く。
清潔感溢れる部屋の佇まいと、その女性の雰囲気に圧倒され、自然に背筋が伸びた。
男は、中年女に電話を入れたその夕方、家にかかった一本の電話を頼りに、今の場所に居た。
ここは、その電話の主であった女性の家である。女性の家は、この街の中心から離れた場所にあった。
元々、土地の地主か名士なのだろうか。伝統的な日本家屋のような造りの家に、大きな庭がある。
庭には樹齢何年だろうか。男の家の桜よりも、歴史の古い大きな桜の樹が植えられていた。
この家の主である初老の女性は、この大きな屋敷に一人で住んでいるらしかった。
後で知ったことだが、数年前に主人をなくし、ただ一人の肉親である一人娘も嫁いでしまったらしい。
男は電話口で、「」野を調べるに当った経緯について、電話口で語った。
「」野が住んでいた借家に住んでいる事。庭から仔実装の遺体を見つけたこと。そして桜の樹。
今まで調べた事件の事柄について語ろうとした時、男の話に興味を覚えたのか、初老の女性から電話では何かとあるので、
後日会えないかとの提案が、女性の方からその電話口であった。
庭の桜の花は、もう既に散り終えようとしている。
もう日も沈みかけている夕暮れの空は、今にも泣き出しそうな状況だ。
男は無理を承知で、今からお会いできないか、との旨を電話口で、初老の女性に告げた。
そして、今に到る。
「近所の方の話では、「」野の事を調べ廻っているそうじゃないですか」
心の裏まで見透かそうとする視線。その視線を受けて、男は、改めて感じていた。あの公園で感じた視線と同じ感覚である。
凛とした視線で見据える、その初老の女性の視線。ピリピリと首筋で感じる監視のような視線。
あの公園で感じた視線の持ち主こそ、実はこの目の前の初老の女性のものであろうと確信していた。
「デスァ!! デスァ!!」
それを裏付ける証拠が、隣の部屋から顔を出している成体実装石である。
「ミドリちゃんは、向こうに行ってなさい」
あの双葉公園に居た赤い首輪の飼い実装石が、この屋敷の中で、男に向って吼えていたのである。
ならば、この初老の女性が、この実装石を連れ、ここ数日、あの双葉公園で男を遠目で監視していたのだろうか。
それは、まるで、「」野を探る男の存在を耳にして、遠目から男の動向を探っていたと勘繰れない事もない。
そして、男が「」野の所在を語るに足る人物なのかどうか、そう品定めをした結果なのなら、
男はこの初老の女性に認められたというのだろうか。どちらにしろ、話を伺ってみるまでだ。
男は腹を据えて、隠すことなく初老の女性と対峙した。
12
「サクラは、確かに「」野が飼っていた実装石でした」
そう独白に近い口調で語り始めたのは、男が今までの経緯を全て語り終えた後であった。
「あなたが見つけた仔実装たちの遺体はサクラの実装石。彼女の仔実装たちでしょう」
「サクラには、仔実装が居たんですね」
「ええ。直接、私は会ったことはありませんが、サクラの最初の子供たち。「」野も大層可愛がったと聞いています」
女性の口調は、まるで「」野を身内のように扱うような口調であった。
ここに招かれた時に、簡単な自己紹介は受けたが、彼女の名字は「」野とは異なっている。
「あなたも、あの事件の事はご存知かと思います」
「ええ」
「「」野が飼っていた実装石が、あの公園を仮初の住まいとしていた事も」
「それは初耳です。なぜそんな事を」
「それはサクラからの提案だったそうです。彼女は仔実装たちを躾るために、身を窶してまで仔実装を正したかったそうです」
「で、あの事件が起きた」
「ええ」
全ては「」野から聞いた話なのだろう。
今まで男が集めた情報とは、比べ物のないぐらい詳細に、初老の女性はあの事件の一部始終を語った。
最初に男が暴いてしまった仔実装の遺体は、サクラが誤って躾で殺してしまった仔実装だったこと。
残った仔実装たちを躾るために、公園暮らしまで身を窶し、身を挺して、仔の成長を願ったこと。
結局、あの事件後、生き残った仔実装たちも、野良猫に襲われ、不慮の事故で命を落としてしまったこと。
「都度、「」野はあの桜の樹に仔実装を弔ったそうです」
「私が暴いてしまった墓は、サクラの仔実装だったんですね」
「ええ。そして、あなたも偶然あの家に住まい、そして偶然にも実装石を飼いはじめた」
「はい。そして、病で命を亡くした実装石を、あの桜の樹の根本へ弔いました」
「で、花を咲かせたと」
「はい」
男は、「」野について調べ始めた複雑な理由について、初老の女性に語りきった。
それは、十二分に初老の女性に伝わったことだろう。
「今夜振る雨で、おそらく庭の桜の花は、全て散り終わるでしょう」
「…………」
「こんな夜に、不躾にも初対面のあなたのお宅へ押し掛けてしまった理由が、今述べた通りです」
そして、男は核心に迫るような口調で、初老の女性に尋ねた。
「あなたは、まるで「」野さんを今でも知っているかのような口調ですね」
「…………」
無論、そうだろう。
そうでなければ、わざわざ初老の女性の方から、男の方へ連絡をとったりはしまい。
公園でのあの監視のような視線。それに、ここに来てからの口調は、まるで男の人柄を見定めるかのような、
詰問ばかりである。 やはりこの女性は、確実に「」野の所在を知っており、かつそれを語るべきかどうか、
葛藤に揺れている表情が、男にも見て取れた。
「ええ。私は「」野の所在を知っております」
苦悶の末か、初老の女性がそう切り出した。
「そうですか」
別段、男は特に驚きもせず、そう答えた。
「あなたがお望みであれば、「」野の連絡先をお教えすることもできます」
「……………」
「桜の樹については、「」野が一番知っております」
「……………」
「まだ遅くはないと思います。今から……」
そう初老の女性が言いかけた時、男はこう言った。
「やはり、お会いするのは止めておきます」
そして、夜遅く尋ねたことを慇懃に詫び、この家を辞する事を告げた。
13
「どうしてですか?」
玄関まで早足で見送りをする初老の女性は、男に向ってそう尋ねた。
男の目的は、「」野の所在を聞くことであるのは確かであった。
最愛の実装石を亡くし、庭の桜の樹に埋めた後に、桜の樹が花を咲かせたのだ。
「」野に会えば、何かがわかるかもしれない。そういう理由で、「」野を探していたはずである。
ましてや、今夜振るであろう雨で、その桜の花は全て散り終わってしまうことは確実なのだ。
「どうしてですか?」
初老の女性は、2度、同じ質問を男に浴びせた。
「デスァ!! デスァ!!」 (クンクンクン)
玄関先では、ミドリと呼ばれた実装石が、男の脱いだ靴に顔を埋め、小さな発見に驚きを隠せない様子だった。
「ごめんよ」
「デデッ!?」
男は実装石の扱いも慣れたもので、頭巾の上から頭を撫でながら、靴を取り上げて、それを履く。
靴を履き終えて、再び、男は初老の女性に頭を下げた。
足元では、ミドリが男の両足の間を、8の字に周りながら、デデッ!? デデッ!?と駆け廻っていた。
「どうしてですか?」
3度目の問いに、男はようやくそれに答えた。
「もう過ぎた話ですよ」
「はい?」
「「」野さんは、きっとこの街を憎んでおられたと思います」
「………どうしてそうお思いですか?」
「3年前のあの事件で、最愛の実装石をなくされている」
「……………」
「ましてや、「」野さんは怪我を負わされ、この街から逃げるように越してしまった」
「……………」
「あの事件後、この街の愛護派たちには、かなりのきつい仕打ちがあったと聞きます。それはあなたの方が、よくご存知でしょう」
「……ええ」
男は、足にまとわりつくミドリを見つめながら言った。
「今更、「」野さんの傷を掘り返しても、何にもならないじゃないですか」
男はそう言い、そして屈託なく笑った。
その屈託なく笑う男に対して、初老の女性は溜息を吐くような息遣いで、こう言った。
「あなた。「」野に似てますわね」
「そうですか?」
「ええ。そして、そのおっちょこちょいな所も、そっくり」
「え?」
逆に、今までの警戒心も全て氷解したのが、初老の女性が屈託なく笑う。
「何がおかしいんですか?」
「いえ。あなたが「」野がこの街を嫌って、この街を離れたと決め付けていることがおかしいんです」
「え?そうじゃないんですか?」
「「」野はこの街のことを愛していますよ。何せ、大事な家族たちと出会えた街なんですから」
「でも、3年前の事件後。現に引っ越しているじゃないですか」
「そりゃそうでしょ。新たな新居に移るためですよ」
「新居?」
「結婚をしたんですよ」
「え?」
「結婚を機に家を引き払い、新居に移るのが悪いことですか?」
「え?え?」
突拍子のない展開に、男は呆気に取られてしまう。
足元のミドリは、デッ!? デッ!?と濃厚な香りの発生源を突き止める為に、躍起に走り回っていた。
14
「看護婦っていう職業は、勤務時間が不安定なんですよ」
今まで凛としていた口調の初老の女性が、まるで親しい知人に話し掛けるような口調となっている。
「隣の市の、勤務場所に近くて、実装石が飼える手頃なマンションに移ったんです」
3年ほど前、初老の女性の娘は、30手前に結婚を果たした。
相手は、あの事件で虐待派の暴徒を抑えるために負傷をして、たまたま娘が担当する病室に入院した患者なのだという。
「その患者が不良患者でね。入院1日目で、部屋を飛び出たっちゃの」
「まさか……」
「そう。敏明さんよ」
「それを手助けしたのが私の娘」。初老の女性が、舌を出して、そう付け加えた。
驚くことが、あと2つあった。
1つは、これから「」野がこの初老の女性宅に向っていること。
初老の女性の娘。すなわち「」野の妻は身重であり、この大型連休に実家に戻って来ることらしい。
もう数十分待てば、「」野とその妻が、この家にやってくるのだと言う。
思いがけない展開に、逆に固まってしまう男。
そして、もう1つの驚くべきこと。
玄関前に立ち、男は初老の女性と共に、「」野の車が到着するのを待っている。
その時に、初老の女性から聞いた話だ。
「あと1つ。大事な事を、話してなかったわ」
そう切り出して、初老の女性が語り始める。
「あの事件の翌日。ここに迷子の実装石が辿り着いたの。
頭に傷を負い、記憶を失った可愛そうな実装石。
この家で暮らしても、いつもいつも、『会いたい、会いたい』って泣いていたの。
『誰に会いたいの?』と聞いても、誰かがわからなくて、それで哀しくて泣き続けていたの」
初老の女性は、敢えて、その実装石の名前を語らなかった。
だが男にも、それが誰であるのかは充分にわかっていた。
「でもね。ある日、その誰が誰かわかったの」
「会えたんですか?」
「ええ。娘がね。敏明さんをこの家に連れて来た日」
「まさか。この実装石が…」
足元で男の靴の臭いを嗅ぎ、ひたすら自慰行為を続ける実装石に、男は目を向けて言う。
「いいえ。この子は、3代目ミドリちゃん。1年前、交通事故で保護した実装石よ」
そう言って、頭巾をずらして、頭の傷を擦って言った。
「その実装石は、あの車の中に一緒にいるはずよ」
里帰りの時は、家にいる実装石も一緒に連れて帰るのだと言う。
そう言って初老の女性は、この家に向っている峠のフロントライトを光らす1台の車を指差した。
15
「」野は車を降りて、玄関先に迎える義母とその隣に立つ若い男に視線を向けた。
「お客様よ」 と言う義母に首を傾げながら、助手席に座る身重の妻が降りるのを手伝ったりした。
後ろの座席からは、成体実装石が3匹。元気に駆け下り、自慰を繰り返すミドリに向って駆けて行く。
「デス〜!! デス〜!!」
「デッス〜♪ デッス〜ゥ♪」
「ウボ〜!! ウボボ〜!!」
遅れて、ひょっこり顔を出した実装石と目があった。
先ほどの成体実装石より、年を重ねている実装石であった。おそらく先ほど飛び出した3匹の成体実装石の母親だろうか。
首を傾げた彼女は、右手を口元に添えて「デスゥ〜?」と、男に向って鳴いた。
嗚呼…そうか、この子がそうか。
男は、そう一人合点をした上で、改めて「」野に向かい合い、そして挨拶をした。
男よりもは幾らかは年齢を重ねているであろう「」野は、その若者に対してキョトンとしている。
さて何から話そうか。
そして、一通り語り終えた後、一雨来る前に、男は急ぎ家に戻らなくてはならなくなるだろう。
散り際の最後の桜の一枝を手にし、男はその奇跡に感謝することになるのだ。
3年前−−−
「どうしたの?何が哀しいのミドリちゃん」
『会いたいんデス!! ママに会いたいんデス!!』
「あらあら。ママはここにいるわよ」
『ママはママデス。でもママはママじゃないんデス!!』
「困ったわね。ほら、朝ご飯のバナナよ」
『デェェェッ!! バナナッ!! バナナッ!!』
「ほら。そろそろ娘が大事な人を連れてくるのよ。大人しくしてなさいね」
『デスンッ!! デスンッ!!』
「その人もね。実装石が大好きな人なの。きっとミドリちゃんの事が好きになるわよ」
『デェック!! デェック!! その人はママじゃないデス』
「ほら。もう来たわよ」
『私のママはママだけデスッ!! ママ以外はママじゃないデスッ!!』
「あら、いらっしゃい。早かったわね」
『デェック… デェック』
「始めまして。敏明さん。ええ。どうぞ、ごゆっくりして行って下さいね」
『デスン… デスン…』
「ほら。ミドリちゃん。ちゃんとご挨拶してね。新しい家族になる方よ」
『…………』
「あら。どうしたの固まっちゃリして」
『……デェ』
「敏明さんも、どうしたの」
『……デェェェ…』
「どうしたの?ミドリちゃん」
『デェェェェェーーーンッ!!』
テチ エピローグ 〜完〜
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私事ですが、
ニューヨーク赴任となり、数年間、日本を離れることになりました。
旧PCの廃棄の際、データバックアップをしていた所、本原稿が目に触れました。
恐らく、このタイミングでアップしないと、一生アップすることがないだろうと思い、