テチ
 
『テチ』10
■登場人物
 男    :テチの飼い主。
 テチ   :母実装を交通事故で失った仔実装。旧名カトリーヌ。
 エリサベス:ピンクの実装服を着たテチの母親。車に轢かれて死亡。
 人形   :テチの母実装の形見であるピンク実装服を着込んだ人形。
 中年女  :姓は綾小路。テチの元飼い主。
 ポリアンナ:テチの継母。迷子になり、川で溺死。
■前回までのあらすじ
 街中に響いたブレーキ音。1匹の飼い実装石が交通事故で命を失う。
その飼い実装は、ピンクの実装服の1匹の仔を残した。その名は『テチ』。
天涯孤独のテチは、男に拾われ、新しい飼い実装の生活を始める。
テチは、元飼い主に引き取られ、ポリアンナという成体実装石と、
新たな飼い実装としての暮らしを始めが、再び、迷子となってしまう。
テチを河川敷で保護した男は、テチの介護を始める。しかし虐待を受けた
テチは、看護を続ける男に対し、頑なに心を閉ざし続けるのであった。
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テチと男の生活は続いた。
這う度に体中に痛みを感じていたテチだったが、体の方は順調に回復を見せていた。
もう体も動かせるようになり、自由にリビングや台所へ行き交うこともできる。
麻の実装服を着て動き回っても、痛みはない。
テチは嬉しかった。
痛みが与えられないのが、こんなに素晴らしい事なのか。
緑の実装服を着て、テッチテッチと処狭しに、家の中を闊歩する。
ここはお風呂。
見覚えがある。
ここはお便所。
クンクン クンクン。懐かしい匂い。
台所。
ごはん食べる処。
グゥ〜。そう言えば、お腹減った。
 テチィ〜?
混濁した記憶の中、覚えのある匂いと風景を見ては、首をかしげるテチ。
この家。
昔、居た事がある。
「お。テチ。もう動き回っても大丈夫なのか」
喜びに溢れていたテチの顔が、一瞬して曇る。
 テェッ!! テェッ!!
まだ覚束ない足取りで、必死に廊下を駆けて逃げる。
人間。
痛い事をする人間。
ケホンケホンする人間。
 テェェェェーー!!!
リビングに戻り、実装人形のスカートの中に潜り込む。
スカートの中から、くぐもった声が響く。
ママに痛いことした人間。
私にも痛いことをする人間。
嫌い。嫌い。大嫌い。大っ嫌い。
頭だけをスカートに隠しているテチは、突き出たお尻を震わせている。
男は、そっと実装フードの盛った皿を、実装人形の傍らに置いた。
「テチ。ママがご飯を取ってきてくれたぞ」
そう言って、リビングを離れる。
 テェ!? クン… クンクンクンッッ!!!
数分後、リビングに響く嬌声と、カリコリ…と実装フードを咀嚼する音がリビングに響いた。

このように、男はテチとある一線を引いて暮らしていた。
保護した当初は、目に映る何もかに恐れを抱き続けたテチ。
優しく接しようが、語りかけようが、ひたすら威嚇と拒絶を繰り返す。
全ては、時が解決してくれる。
男もそうタカをくくっていたが、テチは頑なに男を拒否し続けた。
声をかければ、涙目でその場をくるくると回り、ひたすら震える。
廊下などで目が合っただけで、悲鳴と糞を漏らして、リビングへ逃げ惑う。
そんなテチに、男は健気に接していった。
できるだけ干渉する事は避けながらも、食事や風呂の世話を行った。
虐待を受けた後遺症を引き摺りながらも、テチは飼い実装として、
これからも生きて行かなければならない。
テチは、飼い実装として、その後遺症を克服しなければならないのだ。
嫌われてもいい。
せめて、残された時間。
テチがテチらしい心を取り戻してくれるように。
男は祈りながら、テチに接した。
リビングの壁のカレンダーには、ある日に赤く丸の印が記されていた。
それは、中年女がテチを引き取りに来る日。
すなわち、テチがこの街を離れる日でもあった。
残された時間を、男はテチと共に過ごした。
恐がられたりもした。
威嚇もされたりした。
糞も投げつけたりもした。
そういう時は、男はテチを叱った。
嫌われるだろうが、お構いなく、テチを叱った。
必要以上にテチは震え上がり、テチはますます男を嫌うようになったが、
叱った後は、男はそう構えず、テチに変わりなく接していった。

「テチー。お風呂だぞー」
テチは、まだ一人でお風呂に入ることはできない。
身を清潔に保つことを好む実装石にとって、入浴は大切な時間だ。
極力、テチとは一線を引いて生活をしていた男が、こればかりは仕方がない。
男は嫌がるテチをつれて、脱衣場へと向う。
 チュアアァァッッ!! チュアァァァッッ!!!
脱衣場の籠の中で、服を必死に両手で掴み、脱がされる事を抵抗するテチ。
「ほらほら。おまえの好きな風呂だぞ」
男は、テチを宥めながら、下着や頭巾を脱がしていく。
 テェェェェンッッ!! テェェェェンッッ!!
頭巾まで取られた裸の姿のテチは、ぼろぼろと涙を流しながら、地団駄を踏み悔しがっていた。
以前ならば、大好きなお風呂。
自ら実装服や下着を脱ぎ散らして、駆けて来た大好きなお風呂なのに。
「ほら。風呂にするぞ」
 テェェッッ!! テェェェェェッッ!!!
男に強引に浴室に入れられたテチは、逃げ惑うように浴室の四方をぐるぐると回っている。
「逃げてたら、風呂にならないぞ」
男が浴室を駆け巡る裸のテチを、やさしく手で包み込むようにして掴んだ。
 テェッッ!! テェェエエエーーーッッ!!
男の手の中で、ガチガチと震え出すテチ。
ぶりっ…ぶにょ…と、テチの水状の糞が、浴室の床を濡らしていく。
 チュワッ!! チュワワッッ!!!
「はい。目を瞑って」
男は泣き叫ぶテチをそのままに、少し温めのお湯をテチにかけてやる。
(しゃぁぁぁぁぁ…)
 チュワッ!! デチチーッッ!! デチ…?
(しゃぁぁぁぁぁ…)
 ………チュワ〜ン♪
入浴をあれほど嫌がっていたテチだが、お湯のあまりの気持ちよさに嬌声を上げる。
 チュ〜ン♪ テチュ〜ン♪
右手を口元に添え、上から注がれる暖かいお湯のシャワーに目を瞬かせる。
耳はピコピコと動き、鼻はピスピスと膨らみ、テチュ〜ン♪ テチュ〜♪と腰をしならせ始める。
「ほら。目を瞑れ。シャンプーするぞ」
男はダイソーで購入した100均の実装用シャンプーを出して、テチの髪を洗う。
 テチュ〜ン♪ テチュ〜ン♪
続いて、ボディソープとスポンジで、テチの体を洗ってやる。
 チュフ〜ン♪ チュフ〜ン♪
暖かいお湯。綺麗な湯気。気持ちいい泡。そして、優しい男の指。
水に対するトラウマというべき恐怖心は、既にそこにはなかった。
テチの頬がほんのりとピンク色に上気している。
それが暖かいお湯のためなのか、それ以外のためなのか、わからない。
しかし、テチは頬を赤らめて、うっとりと気持ちいい泡に嬌声を上げながら、
潤んだ目で、優しく話しかける目の前の人間を見つめていた。
「はい。お風呂。終わり」
テチを現実に戻したのは、ハンドタオルで男に体を拭かれている時だった。
 …テェ? テェェッ!! テェェェェェッッ!!!
テチは我に戻ったように、男の手をくぐり抜け、悲鳴のような声をあげて、洗面所から逃げ出す。
「こら、テチ。髪の毛を乾かしなさい」
男の叫ぶ声に一層、悲鳴を高く上げ、急ぎリビングの人形の元へと駆けた。
 テェェェェ!! テッスン… テッスン…
脱がされた服はそのままに。今は憐れな裸の姿。
その姿を視認する度に、テチは悲しくなり、駆けながらもテッスンテッスンと泣きじゃくり始める。
 テエェェェンッ!! テェェェェェェン!! テェ…?
泣き叫ぶテチの声がピタリと止んだ。
「(ふぅ〜。やれやれ)」
遅れてリビングにやってきた男の耳に届いたのは、テチの叫ぶような嬌声だった。
 テチィィィィィィィッッーーー♪ テチィィィィィィィッッーーー♪
実装服。
それもピンクの実装服。
それが、実装人形のスカートの中に置かれていたからだった。
 チュワ〜ン♪ チュワ〜ン♪
テチはピンク色の実装服を両手に取り、ピンク色の実装服を着た実装人形とお揃いの実装服を、
チュワッ!!チュワッ!!と叫びながら、交互に見やり、嬌声を上げて喜んだ。
 テチィィィィーー♪ テッチテッチィーー♪
ピンク色の実装服を、前後逆に着込んだテチの嬌声は、一晩中リビングに響いていた。

男は、テチと過ごすことの出来る限られた間、テチにできるだけの笑顔を
取り戻して欲しかった。
考えた挙句、男はテチのために玩具を与えることにした。
積み木。柔らかいスポンジボール。仔実装向けの実装絵本。
激しい動きでなければ、傷に触ることもあるまい。
それらを、テチに見つからぬように、実装人形の下着の中へ入れてやる。
 チィー…
廊下からテチが、リビングに戻って来た。
男は急いで、実装人形から離れ、テチに見つからぬよう隣の部屋へ移る。
 テッチ テッチ… テ?
実装人形の前に立ち、アンバランスな下着の膨らみを見ては、首を傾げるテチ。
 テチィ〜?
スカートを捲り、下着の中を覗きこむ。
 テェ……
しばらくの沈黙の後、
 チュアッ!? チュア!? ジャァァァァァァァッッッ!!!!!!
途端にテチの大絶叫が、リビングの中に木霊する。
 チュワーーーッ!? チュワーーーッ!?
両手一杯に乗り切らぬ玩具を抱いて、瞳孔を開いたテチがスカートの中から飛び出す。
 テェッ!? テェェェェェーーーッ!!!
リビングの床にばら撒かれた、積み木、スポンジボール、絵本などを見て嬌声をあげるテチ。
 シャァァァァァァッッ!!! シャァァァァァァァァッッ!!
あまり喜びのためか、失禁しながら四肢の姿で、積み木に威嚇を始める。
 テェェェ……!? テェェェェェ……!!
テチは、震える手で、積み木を積みながら、足で絵本を器用に捲り、スポンジボールに
忙しなく視線を送っている。
「(くっ…くっ…くくっ…)」
その様子を隣の部屋で見守っていた男の口から、苦笑が漏れた。
頬を赤らめたテチの姿を見るたびに、男は目を涙で赤らめ、鼻を啜った。

その日もテチは、日が暮れても与えられた玩具で遊び続けた。
実装絵本を手にして、絵の中のお姫様を見て、テチュ〜ン♪ テチュ〜ン♪とピンクの実装服の
スカートをひらひらさせて、クルクルと回る。
積み木を積み上げて、その出来に鼻息を荒くし、テチュー!! テチュー!!と実装人形の手を引張り、
見て見てとせがみ続ける。
スポンジボールをころころと押して転がし、嬌声を上げながら、リビングを一周する。
スポンジボールで遊んでいる時だった。
スポンジボールを転がしながら遊んでいたテチは、その遊びに夢中になっていた。
ボールを押す力加減が、うまくコントロールできなかったのか。
テチは、勢いあまり、スポンジボールの上に乗りかかってしまった。
そのまま、テチはボールごと一回転し、背中からリビングの床に叩きつけれてしまった。
 テェェェェェェンッッ!! テェェェェェェェンッッ!!!
泣きじゃくるテチ。
傷は癒えたとは言え、こんなに激しい動きには、まだ体は対応できない。
痛みのため、目から涙を出して泣き叫ぶテチは、実装人形のスカートの中に駆け込んだ。
しばらくすると痛みがひいたのか、テッスン… テッスン…と涙を拭いながら、スカートの中から
這い出て来る。
 テッスン… テッスン… テェ…
先程、転んだ場所に近づき、転がっているスポンジボールに近づいた。
そして、今度は怒りに身をまかせ、そのスポンジボールに対して、威嚇を行った。
 テチャァァァ!!! デチチィーーッ!!!!
スポンジボールに向かって拳を振るう。
しかし、柔らかいスポンジボールは、逆にテチの体を弾いてしまう。
 テェッ!! テェエエエエ〜ンッ!!
再び実装人形の元に駆け込み、スカートに潜る。
そして泣き止んでは、再びスポンジボールに向かって駆けて行く。
 チュワッ!! チュワッ!! デチチーッ!! デチチィーーッ!!
頭に来たテチは、スポンジボールの上に登って、ボールを足蹴にする。
 テェ!? チュワァァァァァーーー!?
ボールの上でバランスを崩したテチは、しこたま床で頭を打ち、糞を漏らして泣き喚き始める。
泣いては殴り、泣いては足蹴にし、何度かそれを繰り返した後、テチは学習をしたようだ。
 テッスン… テッスン…
スポンジボールの元で、へたり込むテチ。
 テェ……
痛い頭を押さえながら、虚ろな目でスポンジボールを見やる。
 テプ…
涙が止まり泣き止んだ頃、テチは、いきなり噴出し始めた。
 テプププッ!!
口を押えても漏れるテチの愉悦の笑み。
 テプププーーーッ!!! テプププーーーッ!!!
テチの頬が釣り上がり、歯と歯茎が露わになる。
テチの目も三日月状に釣りあがり、目から涙が溢れている。
 プギャッ! プギャッ! プギャーーーーーーーッッ!!!
最後には、腹をかかえて、床の上で転げながら、笑い続けている。
 テプゥーー… テプゥーー…
肩でようやく息を整えて、テチは落ち着きを取り戻した。
そして、テチはスポンジボールを抱き上げたかと思うと、トテトテと洗面所に向い駆け始めた。
洗面所に備え付けられている浴室では、丁度男が風呂に入っているところだった。
 テプ… テププ…
笑みを零しながら、スポンジボールを洗面所の床に置いた。
そして、頬を赤らめながら、トテトテと洗面所から離れ、廊下の一角から、スポンジボールを見つめる。
 …………(ドキドキ)
暗がりの廊下で、テチの目は爛々と輝いている。
 ………テプッ!!
時節、笑いを堪えなくなり、噴出してしまう。
 …………
テチは、こみ上げる笑いを必死に堪える。
 ………プッ!! テプププァーーーッ!!
しかし、それがまた呼び水となり、噴出してしまう。
 テェ〜 テェ〜
汗を掻き、肩で息をしながら、笑いを堪えるテチ。
 …… (チラッ) 
 プギャーーーーーッッ!!! テプププーーーッ!!!
しかし、スポンジボールを見つめていると、どうしても噴出してしまう。
あのボールを踏みつけ、素っ頓狂な悲鳴をあげ、泣き喚く男。
デェェェェェン!!デェェェェェン!!と無様に泣き散らし、ブリブリと下着の中を膨らませる。
そんな姿を、もうすぐ見ることができると思うと、テチの笑いを堪えることができなかった。
 テプププーーーッ!!! テプププーーーッ!!!
駄目だ。駄目だ。
笑いを堪えなければ。
 …………(ドキドキ)
しかし、ぽつんと置かれたスポンジボールに目をやる度に、テチの笑いは止まらなかった。
 プギャッ! プギャッ! プギャーーーーーーーッッ!!!
我慢できないテチは、その場で腹を押えて笑い転げ始める。
ドンドンと廊下の床を叩いて、嬌声をあげる。
 テキャァァ!! テププーーー!!!
テチの脳裏には、頭から血を出して、脳髄を散りばめる男。
 テプププーーーッ!!!
男は、目から血涙を流し、デスデスとテチに助けを求めている。
 プギャッ! プギャーーーーーーーッッ!!!
 プギャーーーーーーーッッ!!!
 ーーーーーッッ!!
 ……
 …

(ちゅん… ちゅん…)
空が白み始めた初冬の朝、涙で充血した両目のテチは、汗と涙と涎と小便の水溜まりの中
ぐっちょりと濡らした実装服を身に纏い、ガチガチと歯を鳴らし、体を震わせながら
洗面所のスポンジボールを見て、テェェ……と小さく白い息を漂わせながら鳴いていた。
一睡もしなかったのだろうか。
ギンギンと血走らせた目が、ギョロギョロと忙しなく動く。
頭の中の妄想が、まだ続いているのだろうか。
ガチガチと鳴らしている口元には、時折、テププ…と笑みが零れている。
その時、テチが震えている廊下の上から、ドンドンと階段を降りる音が響いた。
 ……ェ?
「はぁ〜。良く寝たぁな〜」
階上から降りてくる男と目が合うテチ。
 ……テ…ェ?
「あれ?洗面所の電気、つけっ放しだったな」
そう言って、洗面所の電気を消す男。
 ……テ…ェェェ
テチの体が小刻みに震えている。
「ん?どうした。テチ?」
 テェ… テェェェ!! テェエエ…ッ!! テェエエエーン!!
男と目があったテチは、充血した目を何度も何度も瞬かせながら、
大粒の涙をぼろぼろと流しながら、大声で泣き始め出した。
「お、おい。どうしたんだテチ」
テチに近寄ると、テチの服はぐっちょりとテチの体液で濡れている事に気がつく。
「おまえ、ぐっちょりじゃないか」
男は早速、ガチガチと震える濡れ鼠のテチを抱き上げ、風呂場へと向う。
 テェ!? テェェェェェェ!!!!
いきなり掴まれたことに驚いたのか、男の手の中で、小さな悲鳴をあげるテチ。
 テチューー!! テチューーッ!!
男が洗面所に入る直前、テチは凍える手で、必死に洗面所のスポンジボールを指差し、
男に注意を訴えかけようとする。
 テェェェェェェ!!!!(ガチガチガチガチ…)
洗面所に入るなり、目を瞑り、両手で頭を押さえ震え出すテチ。
(しゃわぁぁぁぁぁ…)
 テェ?
激しい衝撃に備えて身構えていたテチを包んだのは、暖かいシャワーのお湯であった。
 テェ!? テェッ!? テェェェ!!?
首を左右に振り、スポンジボールの行方を捜すテチ。
「はいはい、動かない。動かない」
 テェ!? テェッ!?
テチは何が起こったか理解できず、男にされるがままになっていた。
「さて、服もこのまま洗濯するか」
 テェェェ… テチュ〜 テチュ〜ン♪
テチは、暖かいお湯に包まれ、眠気も手伝ってか、そのまま男の手の中で寝息を立てて眠ってしまった。
 テスー… テスー… テチュ〜ン♪ テチュ〜ン♪
男は、テチの体を乾かし、日差しの差し込むリビングの実装人形の元に、
寝息を立てるテチを、そっと寝かせ、リビングを後にした。

そんなテチとの生活が続いた。
カレンダーの日付は、テチとの別れの日に向けて、刻々と日を刻み続けている。
しかし、テチは相変わらず、男が嫌いだった。
男の顔を見れば威嚇を繰り返し、逃げ惑う。
しかし、時より見せる男の手の暖かさが、テチを惑わしていた。
男の指がテチの頭を撫でると、テチは思わずテチュ〜ン♪と声を出してしまう。
他者に庇護を求める仔実装の本能であれば、それは仕方のない反応かもしれない。
しかし、テチは、そういった時に頭を振り、自らを戒めるように
腹の底から唸り声を上げ、男に対して威嚇を行った。
感情では、憎しみの目で男を睨む。
しかし、テチの体は、男の体温を欲していた。
優しく暖かい包容力のある肉。
テチの年頃の仔実装は、母の腕(かいな)の中で眠るべきなのだ。
テチは、男との生活の中で、そんな葛藤に苛まれながら、
その葛藤の理由もわからずに、不安定な生活を送っていた。


 ィィィィィィィーーー
リビングで声が聞こえる。
夜中の2時。
全てが静まり返った深夜。
処狭しと、暗がりのリビングの中を、力一杯駆け回る何かがいた。
 ィィィィィィィーーー
それは、両目一杯に涙を浮かべ、意味不明の悲鳴を搾り出し、出鱈目に狭いリビングの中を
駆け巡っていた。
テチだ。
悪夢でも見たのだろうか。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、がむしゃらに暗いリビングの中を駆け回っている。
暗闇の中で目を瞑れば、嫌な記憶が昨日のように蘇ってくる。
目を閉じると、必ず悪夢に魘されるのだ。
少年たちの嬌声。
ポリアンナの悲鳴。
車の音。
高架下に木霊する自らの悲鳴。
 テェ!!(ガバッ)
悪夢で目が覚める。
目が覚めたテチは、恐る恐るスカートの捲り、リビングの風景を見やる。
シンと静まった冷たい河の底のような暗闇が、リビングに無限に広がっていた。
日中は、テチには憎いならがも男がリビングに居た。
しかし、夜には、男の姿はリビングにはない。
 テェ… テェエエ…!!
恐怖に駆られたのか、テチは助けを求めるため、暗闇の中、闇雲に駆け始める。
 テェエエ…!! テェェェェン!!
脳裏には、テチを見下ろすあの少年たちの愉悦の笑みが、こびり付いている。
幾ら走っても、幾ら走っても、その笑い声が払拭されないのだ。
 テェェェェン!! テェェェェン!!
テチはその悪夢を取り払わんと、暗闇にリビングを駆け巡る。
(ごちん)テェ!? テチャァァァァァーーーー!!!
暗がりで駆けるため、リビングのソファーに鼻頭を思いっきりぶつけるテチ。
 テェ!? テェェ!?
鼻に走る激痛に耐えかね、小さな悲鳴を上げる。
鼻を押える手にべっとりとした物がつく。テチの鼻血だ。
 テチァァァァァ!! テチァァァァァ!!
それが血だとわかるや否や、テチは悲鳴を上げて、その場から逃げ惑う。
 チュアアアッ!!(ごちん)
次はテーブルの足。
 デチチー!!(ごちん)
リビングの壁。
 テェェェェーーーン!! テェェェェーーーン!!
ずきずきと痛むおでこを押えながら、暗がりのリビングの四方を駆ける。
(くすくす… あっちに行ったぞ)
 チュアッ!! チュワッ!! (ごちん)
(ピンク〜 こっちかぁ〜?)
 ヂュワーーーッ!! (ごちん)
(どこ逃げてんだぁ? ピンクゥ?)
 テェェェェーーーン!! テェェェェーーーン!!(じょぉぉぉぉぉ…)
暗がりのリビングに血と小便と糞をばら撒きながら、必死に逃げ惑うテチ。
 テェェ!! テチュ〜ン♪ テチュ〜ン♪
そして、なんとか実装人形の元にまで辿り着き、甘い嬌声を上げながら、母実装に救いを求める。
 テチューーーッ!!! チュワワーーーッ!!! チュワワーーーッ!!!
実装人形の前掛けを掴み、必死に揺するテチ。
  チュワワーーーッ!!! チュワワーーーッ!!!
先日、安全ピンで固定された実装人形の首が大きくうねる。
 デチチー!!! デチチーー!!!
アンバランスな実装人形の首が大きく前に傾き、安全ピンが外れる音と共に、首が再びもげた。
 テェ…
首はテチの背中を転げ、暗がりのリビングの上にコロリと転がった。
 テェェ… テェェェェェェェッッ!!!!!
(サッカーやろうぜ! ピンク)
 テェェェェェェェッッ!!!!!(じょぉぉぉぉぉ…)
(ほぉら。泣いてんじゃねーぞ)
 テェェェェーーーン!! テェェェェーーーン!!(ぶりぶりりりぃ…)
テチは、自らの下着の中の糞を掴み、リビングの暗がり目掛けて、出鱈目に投げる。
 ピィィィ〜〜… ピィィィィィ〜〜〜
余りの興奮のためか、気管が狭まり、呼吸する度に笛のような音を立てている。
そして、そのテチの耳元に、リアルな少年の声が、まるで息吹までも感じさせるように
テチの耳元で囁いた。
『ピンク… 花火やろうぜ…』
 テェェ…!! テチィィィィィィィィィィィーーーーーーーーーッッ!!
既にテチは錯乱状態だった。
 デビベデチベピァァァァピァァァァ…
呼吸することも忘れ、闇雲にリビングを駆け巡る。
 エロ… エロ… ロパァ!! ロパァッ!!
嘔吐する。
酸素を失った脳が呼吸するように、体に命ずる。
 ロパァ!! ロパァッ!!
無理に呼吸をすると、気管に吐瀉物が逆流する。
 ゲボッ!! ゥパッ!! ロパァッ!!
実装服を掻き毟り、血涙を流して、のた打ち回る。
まるで、陸で溺れる河童だ。
その朦朧とした脳裏に浮かんだのは、ポリアンナの姿。
 デボォッ!! デヴォッ!!
そして、鼓膜に張り付くのは、ポリアンナの喘ぎ声。
 ジュバァアアアアーーーー!! チュバァアアアッーーー!!
川で溺れた時の記憶。
気道が塞がれたためか、その記憶が鮮明にテチの脳裏に蘇る。
 デェエェヴォァッ!!!!
リアルに脳裏に響くポリアンナの悲鳴。
 ヂァアアアアッッ!! テジャァァァァ!!! テッヂャアア!!!
震える四肢で、吐瀉物に塗れながら、リビングをのた打ち回るテチ。
そして、何とか辿り着いたのが、先程もげた実装人形の頭だった。
震える四肢で、実装人形の頭によじ登り、天に向かってテチは叫ぶ。
 テチィィィィィィーーーッ!!!! テチィィィィィーーーーッッ!!!
 デヴォッ!! デボォッ!! 
暗闇のリビングの中、瞳孔の開いたテチの眼前には、荒れ狂う河の濁流が映っている。
 テェッ!! テェェェェ……ッ!!
不安定な足場。うねる水面。襲う波浪。
秋の冷たい河水がテチの顔を洗う度に、テチは恐怖に慄き、泣き叫ぶ。
 テチィィィィィィィィーーーーーーッッ!!!
テチは、母の助けを求め、天に向かって泣き叫ぶ。
 デヴォッ!! デェエェヴォァッ!!
しかし、母の助けは一向にない!
 テチィィィィィィィィーーーーーーッッ!!! テチィィィィィィィィーーーーーーッッ!!!
不安定な足場に、強張った四肢をしっかりと立て、歯を喰い縛る。
そして、母の助けを求めて、チュワッ!!チュワッ!!と叫びながら、荒れた濁流の左右を見やる。
しかし、眼前に広がる光景は、河の荒波。愛しの母の姿は、無情にも何処にもいない。
 テェェェェェ…!! テェェェェン!! テェェェェン!!
 (デヴォッ… デボォッ!!)
頼りにしていた足場が沈み始める。
 テェ!? チュワッ!! チュワッ!!
秋の冷たい河水が、テチの足を呑み込み始める。
 テェェェェェッッ!!! テチィィィィィィィィーーーーーーッッ!!!
 
暗がりのリビングで、のた打ち回るテチ。
開いた瞳孔で、泡を吐き、大量の失禁と吐瀉物に塗れ、両手で喉を押さえ、痙攣をし始める。
瞳孔が開いたテチの眼前には、川底までの沈み行く暗い水の光景が映っていた。
眼前には、口から大量の泡を吐き、血涙を水中に漂わせながら、悶え苦しむポリアンナ。
四肢は闇雲に水を掻き続けるが、重力に従い、ポリアンナの体は川底に川底に沈んで行く。
既にポリアンナの下着は、彼女の頭部程の大きさに育っている。
その下着が更なる重石となり、ポリアンナの体をますます深底へと引き込んでいく。
 デヴォッ… デボォッ!!
体が空気を求めていた。
耐え切れず、水中で大きく一呼吸をするポリアンナ。
 デェエェヴォォァッ!!!
途端に咳き込み、悪戯に四肢を水の中で掻き続ける。
空気を求め、水を吸い、肺に溜まった異物を吐き出すために、残り少ない肺の空気を、また吐き出す。
 ガァッ!! ゥゲェッ!!
ない爪で、自らの顔を掻き毟る。
 デザァッ!! ヴォォァッ!!!
自らの手を噛み千切り始めた。
 …デェッ!! ……デェッ!!
闇雲に暴れていた四肢がピタリと止まったかと思うと、ポリアンナの体が小刻みに痙攣し始める。
 …………デ……
ごぼっ…と肺の中の最後の空気を吐き出したかと思うと、デロンと舌を出したまま、
ポリアンナは水の流れに体を任せて、動かなくなった。
 ケホッ… ゥポ… ゥポポ…
ポリアンナの沈み行く姿を見ながら、テチも肺の残りの空気を吐き出していた。
体は意思に反して、小刻みに痙攣を始める。
意識が遠のいて行く。
体が痺れていく。
 テェ……
その時、テチは浮力感を感じた。
暖かい物に包まれる感覚。それに明るい日差し。
まるで、水中より引き上げられたような、そんな感覚。
そこでテチの記憶は途絶えた。



「……ッチ!! …しろ! テチ!!」
 テェ…?
明るくなったリビング。
男がリビングに駆け寄り、テチを心配そうに覗き込んでいる。
「テチ!大丈夫か!テチ!」
 テェ…?
体を包む、暖かい感覚。
テチを包むそれが、男の手の体温である事に気付くに、しばしの時間を要した。
男がテチを包み込むように抱き上げ、懸命に体を揺すっているのである。
その晩、男がテチの夜鳴きに気付き、階下に降りた。
しかし、何時もの夜鳴きと違い、テチの様子が一段とおかしい事に、気がついた。
リビングの電気をつけると、リビングは糞と小便と吐瀉物の海と化していた。
その中央。
首のもげた実装人形の生首の上で、四肢を踏ん張り、天を見る形で失神しているテチの姿があった。
 ピィ〜… ピィ〜…
虫の息であるテチを、咄嗟に抱き上げる。
指で吐瀉物を取り除き、気道を確保させてやりながら、テチの体を必死に揺らしていた。
「大丈夫か?テチッ!!」
テチは、男の顔を確認したのち、か細い声を口から漏らす。
 テェェェ…
それは決して、威嚇の類の声ではなかった。
 テェェェェェェェッッ!!!!!
「よしよし。恐い夢は終わったからな」
 テェェェェーーーン!! テェェェェーーーン!!
「次はいい夢を見ような」
 テェェェェーーーン!! テェェェェーーーン!!
「そうだ。金平糖の夢を見ような。金平糖」
吐瀉物に塗れたテチは、目に一杯涙を溜めて、男の指にしがみ付いていた。


変わった奴だ。
ウェットティッシュで体を綺麗にしてもらい、新しい緑の実装服に身を包んだテチは思う。
本当に変わった奴だ。
煌々と電気がついたリビングで、毛布に包まった男の横顔を見て、テチは思う。
男は、寝室より毛布を持ち出し、テチが寝入るまで傍で指で頭を撫でてやった。
この日は、まだ神経が猛っており、テチは中々寝入る事ができなかった。
そのため、テチが寝入るより先に、男の方が先に寝入ってしまった。
テチは、男の指を両手でしっかり抱きながら、その男の顔をまじまじと見つめている。
大嫌い。でも変わった奴。
しかし、男の指の温度だけは、テチをリアルに安心させた。
どこかで感じたぬくもり…
 デスゥゥゥ〜♪
 デッス〜ン♪
そうか。ママか。
だとしたら、変なママだ。おかしなママだ。
 チプ… チププ…
そんな事を思いながら、テチは男の指に頬擦りをして、目を瞑った。
見た夢は、2匹のピンクの実装服を来たママに抱かれた夢だった。
手には、持ちきれない程の金平糖を持っていた。

 
男とテチの生活は続いた。
カレンダーの赤く記された日には、もう数えるほどしかなかった。
もう数日すれば、男はテチと別れなければならない。
しかし、男は最初に決めたように、最後の日まで普段と変わらぬ日々をテチと共に送るつもりだった。
テチと送る幾星霜。
この苦難の生活の中、テチに少なからずの変化が見て取れた。
 ゥゥ〜〜ッ!! ゥゥ〜〜ッ!!
実装人形のスカートの中から光る目。
この日も、ピンクの実装服を着たテチが、威嚇の声を上げている。
「じゃぁな。テチ。行ってくるな」
男もずっと仕事を休むわけにもいかず、日中は仕事に出かける。
鞄を持ち、コートを着込み、リビングの電気を消す。
 ゥゥ〜〜… テェ!?
男が玄関に向かって歩く。
テチは、それに気がついて、スカートの中から飛び出し、急いで男を追いかける。
男が玄関先で靴を履いていると、リビングの入り口から、顔の半分だけ出し
男の顔を睨むテチの顔があった。
 ……(じー)
「じゃぁな。テチ」
 テェェ!! テェェェェ……!!
男が声をかけると、テチは慌てふためいて、リビングの奥へと逃げ隠れる。
最近出かける時は、いつもこんな感じだった。
男が出かけてから、男が戻るまでの間。
テチは一人リビングに佇み、時を過ごす。
用意された台所の実装フードを掴み、口の中に入れて咀嚼する。
最近思い出したのか、躾された時と同じように、洗面所のトイレで用を足す。
眠くなると、実装人形のスカートに潜り、昼寝をする。
起き出すと、玩具箱からスポンジボールや積み木を出して、一人で遊び出す。
時折テーと、小さくつまらなさそうに鳴く。
男が居ない間、案外時間を持て余しているようだった。
 テスー… テスー…
いつの間にか、寝入っていたらしい。
遠くでカラスの声や豆腐屋のラッパの音が聞こえる。
 テスー… テェ?
リビングに差し込んで赤い日差しで、テチは目が覚める。
小さな欠伸と小さな伸びをして、窓の外の赤い空を見上げる。
 テチュー♪ テチュテチュー♪
オレンジ色の日差しのせいか、赤い頬をしてテチは唄を歌う。
赤い空を見ると、何故かドキドキしてくるのは確かだった。
 テチュー♪ テチュテチュー♪
一人残されたテチは、知らず知らずの内に、男の帰りを待ち遠しく感じていた。
男の帰宅は早くても7時から8時頃だ。
その頃になると、テチは非常に忙しない。
意味もなく玄関の方へ近づき、テチィ〜? と首を傾げたり、テーと小さく呟いてリビングに戻ったりだ。
(ガチャ… ガチャ…)
 テェ!?
玄関の方から気配がすると、テチは小さな悲鳴のような声をあげる。
 テチュ〜!!
持っていた積み木を放り投げ、一目散に玄関へと走る。
「あ〜、疲れた。ただいま〜」
リビングから飛び出し、廊下を駆けて来るテチと目が合う。
「テチ。大人しくしてたか」
 テェ!? テェェェェェェ!!!
男と目が合ったテチは、そのまま急ブレーキで踵を返し、リビングの入り口へと舞い戻る。
そして、また戸口の影から、体を半分だけ出して、男に向かって威嚇を始める。
 ゥゥゥゥ〜〜ッ!! ゥゥゥゥゥ〜〜ッ!!
「はいはい。飯にするか。テチ」
威嚇を続けるテチだが、何故か、頬は赤ら顔だった。
その日も、男とテチは変わらぬ生活を送っていた。
その日は、男の仕事は休みであり、朝からテチと共にリビングで過ごしている。
男がいる日は、テチの行動も朝から忙しない。
男は、リビングで新聞を読んだり、テレビを見たりして、くつろいでいる。
テチは、男の顔を伺いながら、男の周りをテチテチと歩いたりしている。
 チラリ… チラリ…
歩く度に、忙しなく視線を男に向ける。
「ん…?」
 テェ!? テチャーー!!!
男と目が合う度に、テチは小さな悲鳴と共に、ソファーや実装人形の陰に急ぎ隠れる。
そして、悲鳴が止んだかと思うと、その陰から顔の半分だけ出して、赤ら顔で男を見つめ始める。
男も日中家に居るからといって、テチにべったりと構うわけでなく、
食事・入浴といった最低限度の事にしか関わろうとしない。
男が無視を決め込んでいると、テチは男の顔色を伺うように、ソファーから台所へ。
台所からテーブルの下へ。
兎に角、駆けては隠れ、隠れては駆けて、男との距離を必死に取るのだ。
そして、たまに男と目が合うと、チャァーーー!!!と悲鳴のような声を上げて廊下に走る。
そして数分も経たない内に、リビングの入り口から半身だけ見せて、じぃーと男の顔を
凝視しているのだった。
そんな何でもない日常の1コマ。
男はテチと何でもない大事な時を過ごしていた。
今も悲鳴を上げて実装人形の陰に隠れるテチの姿を微笑ましく見つめながらも、
男は時計の時間を見やる。
約束の時間は近づいていた。
その日は、カレンダーに赤い丸印が描かれた日。
テチとの別れの日だった。
「テチ。少し散歩に行くか?」
散歩という単語を聞いて、小さな悲鳴をあげるテチ。
男がケージを持ち出すと、病院に連れて行かれるのが分かるのか、いつもは狭いリビングを
逃げ惑うのだが、「散歩」と聞いたテチは少し身構えながらも、素直にケージに入った。
 テッチー♪ テッチテチー♪
外行きのピンクの厚手の実装服に身を包んだテチは、久しぶりに見る外に景色にご機嫌だった。
拍子外れなテチの唄も、今日はいささかリズムが良く、男の目からしてもテチはご機嫌であることがわかる。
男は右手にはケージを持ち、左手には大きな紙袋を持っている。
家を出て、数分歩くと、テチが昔よく連れて来られた公園に辿り着く。
そこで、男を待っていたのは中年女だった。
 テチュゥ〜?
テチはケージの中で、首をかしげながら、昔見た覚えのある中年女の顔を見ていた。
男は中年女に2,3の言葉を交わして、テチの入ったケージを中年女に渡す。
 テチィ〜?
ケージの窓から、男の顔が見える。
笑った顔が見えるが、どこか物寂しげな感じがした。
そして、男は左手に持った大き目の紙袋を渡した。
中からは、ピンク色の実装服を着た実装人形が少し見える。
 チュワッ!! チュワ〜ン♪
実装人形が目に入り、少し興奮気味のテチ。
 テチュ〜ン♪ テチュ〜ン♪
テチは、ケージの窓をガンガンと叩いて、出せと要求する。
 チュワ!! チュワ!! デチチー!!
しかし、その要求は聞き取られず、テチはそのままに、男と中年女は何か言葉を交わしている。
そして、男が慇懃に礼をしたかと思うと、男は踵を返し、その場を去っていくのが
テチのケージの窓から見える。
 デチチー!! デチチー!! テェ…!?
出せと要求していたテチの声が止む。
その目が、男の姿を追っていく。
男が去っていく。
寂しい背中を見せて、男が去っていく。
ケージの中で、その小さくなる背中を、テチは静かに見送っていた。
 テチィ〜?
間抜けな声で鳴いてみせた。
 チュワッ!! チュワッ!!
気を引かせるために、少し大きな声でも鳴いてみせた。
しかし、男は振り返らず、黙々と公園を後にしていく。
 テェッ!? テェッ!? 
戸惑いを隠せず、テチはケージの中で暴れ始める。
 テェエエッ!? テェエエッ!? 
テチの中で、どういった感情が育っているのか、テチ自身わからなかった。
 チュワァァァッ!? チュワワァァッッ!? 
男が去っていく姿を見るにつれて、高まる感情。
身を引き裂かれるような感覚。
あの時。
見知らぬ繁華街で鳴いた夜。
あの時。
人知れぬ高架下で鳴いた夜。
あの時に味わった感覚。
テチは小さくなる男の後姿を見続ける。
 テェ…
口から無意識のうちに声が漏れる。
 テェェ…
何故か涙が溢れてきた。
 テェェ… テッス… テッスン…
「どうしたざます。カトリーヌちゃん」
中年女が話しかけると、テチはケージの中で一層暴れ出す。
 チュワッ!! チュワッ!! テェェッ!! テェェェェッ!!!
「どうしたざます!そうざます!金平糖ざます!」
テチの暴れ方に驚いた中年女は、テチに金平糖を与えようと、ケージの扉を開けてしまう。
 テェェェェッ!!!
「あ。カトリーヌちゃん!! どこ行くざます!!」
テチは中年女の手を巧みにすり抜け、芝生の上に降り立ったかと思うと
一目散に男が消えた方向に向かって、駆け始めた。
「カトリーヌちゃん!! 待つざます!!
 そうざます!! ママざます!! ママがここに居るざます!!」
 テェ!?
中年女が紙袋から、実装人形を取り出し叫ぶ。
「ほぉら。テチテチ☆魔法スティック(新型)もあるざます」
 テェェェェッーーー!!! テチュ〜ン♪
しかし、テチは一瞬、中年女の方へ引き摺りられそうになった体を踏ん張る。
「ほぉらママざます〜。スティックざます〜」
 テェッ!! テェッ!!
男が去って行く公園の出口と実装人形の双方を、振り向きながら戸惑うテチ。
 テェェェッ!! テェェェッ!!
そして、テチは顔を垂直に立てて、鳴いた。
 テチィィィィィィィィッーーーーーーーーーー!!!
あの鳴き方で。
 デ?
 デデッ?
公園の芝生の上で、自らの仔達と戯れる成体実装石が一様に顔をあげる。
公園の中央には、テッスンテッスンと泣きじゃくりながら、一目散に駆けるピンク色の仔実装の姿があった。
公園で屯していた飼い実装石たちが、一様にその姿を見る。
「待つざますーー!! カトリーヌちゃーん!!」
駆ける途中、足を挫いたのか、その場で蹲る中年女の叫び声も響いている。
その叫び声と共に、公園に響き渡るテチの声。
 テチィィィィィィィィッーーーーーーーーーー!!! テチィィィィィィィィッーーーーーーーーーー!!!
その声を聞きつけ、成体実装石が慌しくなる。
「デ?私を呼ぶのは誰デス?」
「デデ? うちの仔はどこデス?」
 テチィィィィィィィィッーーーーーーーーーー!!! 
「ママ。ワタチはここに居るテチ」
「心配したデスゥ〜。いい仔、いい仔デスゥ」
 テチィィィィィィィィッーーーーーーーーーー!!!
「ママッ!! ママッ!!」
「安心するデス。ママはいつもおまえの傍デス」
飼い実装石たちが、一様に仔を抱き上げ、公園の中央を駆ける仔実装に目をやる。
「ママ。あの仔、迷子テチ?」
抱かれた仔実装が言った。
「あの仔。可哀想テチ」
成体実装石が、優しい我が仔の頭を撫で、仔に諭す。
「大丈夫デス」
柔らかい額の栗色の髪を撫で、微笑みながら、成体実装石は言う。
「あの声を聞けば、必ず駆けつけるデス」
目を潤ませて、駆けるピンクの仔実装の姿を見て、成体実装石は世界一の笑顔の我が仔に言った。
「あの仔のママは、きっと駆けつけるデス」

 テチィィィィィィィィッーーーーーーーーーー!!!
何度こけただろうか。
 テッスン… テッスン… テチィィィィィィィィッーーーーーーーーーー!!!
膝も擦り剥き、血が流れ出している。
 テェエエエン!! テェエエエエン!!
しかし、テチは必死に男の呼称を呼び続け、公園を駆ける。
 チュワッ!? チュワッ!?
公園の出口に出たところで、男の姿を見失ってしまう。
ボロボロと落ちる大粒の涙を飲み込んで、その場で必死に臭腺を追う。
 ヒック… クンクンッ!! ヒック… クンクンクンッッ!!
向こうだ!
アスファルトの上を駆け、必死に男の後に追い縋るテチ。
しかし、その方向は嫌な感じがする。
近づくにつれて、その嫌な感じは、はっきりとテチの耳に聞き取れた。
音がする。
嫌いな嫌いな音がするのだ。
しかし、嫌な音など気にはしてられなかった。
何故なら、テチは男を見つける事が出来たのだから。
テチの目にも、遠目で男の姿を確認することが出来たのだから。
道の向こう側。
このアスファルトの道の向こう側。
男だ。男をとうとう見つける事ができたのだ。
 テェェェェッッ!! テェェェェッッ!!
肩で息をしているテチが、涙を流しながら男に駆け寄ろうとする。
テチは一直線に男に向かって駆けた。
 テッスン… テッスン… テチィィィィィィィィッーーーーーーーーーー!!!
男も、そのテチの声に気付いたようである。
しかし男は慌てた様子で、凄い形相でテチに向かって叫んでいた。
テチが今駆けている場所。
それは、国道2号線。
昼下がりの交通量の激しい、上り下り合わせての、6車線道路であった。
(続く)