テチ
『テチ』9
■登場人物 男 :テチの飼い主。 テチ :母実装を交通事故で失った仔実装。旧名カトリーヌ。 エリサベス:ピンクの実装服を着たテチの母親。車に轢かれて死亡。 人形 :テチの母実装の形見であるピンク実装服を着込んだ人形。 中年女 :姓は綾小路。テチの元飼い主。 ポリアンナ:テチの継母。迷子になり、川で溺死。
■前回までのあらすじ 街中に響いたブレーキ音。1匹の飼い実装石が交通事故で命を失う。 その飼い実装は、ピンクの実装服の1匹の仔を残した。その名は『テチ』。 天涯孤独のテチは、男に拾われ、新しい飼い実装の生活を始める。 テチは、元飼い主に引き取られ、ポリアンナという成体実装石と、 新たな飼い実装としての暮らしを始めが、再び、迷子となってしまう。 必死にテチを捜索する男。男がテチと出合ったのは、川原で変わり果てた ポリアンナの姿の横で、男に対して必死に威嚇を繰り返すテチの姿だった。 ==========================================================================
「こんなのカトリーヌちゃんじゃないざますっ!!!」
実装病院の病室に轟いた声と共に、扉が激しく閉まる音が室内に響く。 声の主は、中年女だった。
男は、テチを保護した後、すぐさま中年女に連絡を取り、実装病院へテチを運んだ。
河川敷で暴れるテチを、近くにあったダンボールに押し込む。 男の手がテチに触れただけで、テチはこの世の終末が訪れたかのように、騒ぎ立てた。
ダンボールの中は、テチの血と思わしき緑と赤の血がべったりとついていたが、 無理やりテチをダンボールに押し込み、ダンボールを車の後部座席に積み込む。 車中、テチはダンボールの中で、気の狂わんほどの悲鳴で叫び続けていた。
実装病院の前には、男から連絡を受けた中年女が、男の到着を待ちかねていたが、 診療室の中で、ダンボールの中を覗きこみ、叫んだのが先程の台詞であった。
ダンボールを開ける。 光りが差し込むと、ダンボールの中から悲鳴と共に糞が飛ぶ。
テシャァァァァァッッ!!! プルッシャァァァァッッ!!!!
テチはダンボールの中を逃げ惑い、手から零れる糞を必死に掴んでいた。 そして、ダンボールの片隅に寄り、ガタガタと震えながら、威嚇を繰り返す。
眼窩は窪み、肌と髪は焼け焦げ、服は泥と糞とゲロで汚れ、 唇は乾き、ガチガチと鳴る歯を必死に喰い縛り、小刻みに震えている。
耳には、何十個のホッチキスの芯が噛み、ギョロギョロッと開いた瞳孔が、 忙しなく周囲を見やる。
中年女が拒否するのも、当然だった。 残された男は、実装医師と二人で、診療室でテチを見つめていた。
診療室には、待合室から中年女の物と思われるすすり泣く声と、 ダンボールの中からのテチの悲鳴のみが聞こえていた。
「虐待ですね。これは酷い」
沈黙を破ったのは、医師であった。 飼い主の狂乱にも慣れたものなのか、医師は冷静にダンボールの中を覗きこみ言う。
「飼い主さん」
医師が言う。
「飼い主さん!」
「あ、はい」
男が答える。
「とりあえず、体を綺麗にします。奥でお湯を用意しますので、 その間、飼い主さんはこの仔の服を脱がして上げてください」
医師はそう言って、診療室の奥へと走る。 男は、テチの服を脱がすべく、ダンボールで騒ぎ続けるテチに顔を近づけた。
チュァッ!? テキャァァァァァァァッッ!!! テキャァァァァァァァッッ!!!
近づく男の気配を察したのか、瞳孔が開きっぱなしのテチが、一層甲高く泣き叫ぶ。 口を大きく縦に、これでもかと開き、叫ぶテチ。 テチの口の両端は裂け、ピュッ!ピュッ!と血が迸っている。
チュアアアアアアアアッ〜〜〜〜〜〜〜!!!
そして、テチは男に向い、出鱈目に手にした糞を投げつける。
「テチ。暴れるんじゃない」
男が顔についた糞を手で拭いながら、暴れるテチを手にする。
テェェェッッ!!! テェェェェェ…!!!
テチは男の手に収まるが、テチは四肢を震わせて、ピタリと泣き止む。
ガタガタガタガタ……
小刻みに震える振動が、男の手に伝わる。それは、テチの震える恐怖だ。
男の手の中で、直立不動しているテチ。 テチの炯々とした窪んだ両目が、忙しなく左右を見やり、そして、ギョロッと男の方へ向く。
ピェ…ッ!!
目が合うと同時に、テチの歯が、ガタガタと音を鳴らし始める。
じょぉぉぉぉぉぉ……
そして、失禁。 テチの緑の下着から、一筋の滝がダンボールの上に、音を立てて垂れていく。
ピィッ!!! ピィィ〜ッッ!!!
極度の緊張で、気道が狭まっているのか、まともな発声ができず、テチは甲高い声で鳴き始める。
「テチ。まずは服を脱ごうな」
男はテチを興奮させぬよう、優しく語りかけながら、暴れるテチを優しく片手で包み、 もう一つの手でシルクの下着を降ろして行く。
ぼとり… ぼとり…
下着から、糞の塊がダンボールの上に落ちる。 その緑の糞には、無数の白い蛆が集っていた。
ピッ…!! ピィィ〜〜〜ッッ!!!
下着を奪われたことに恐怖を感じたのか、テチは血涙すら流し始めた。
続いて、男はどす黒い色のしたフリルのついたピンクの実装服を脱がせる。 しかし、ピンクの頭巾は、ホッチキスの芯が噛み、どうしても脱がせることはできない。
その時、診療室の奥から、医師の声がした。
「飼い主さん。奥へお願いします」
男は仕方がなく、頭巾姿のテチを手に、医師の指示通り、診療場の奥に進む。 そこには、ぬるま湯が張られたステンレス製の小さな浴槽があった。
「傷口を洗いますので、そのまま、お湯に入れてください」
「ほら、テチ。おまえが大好きなお風呂だぞ」
ピァ!! ピャァァァ!!!
テチは浴槽に張られたお湯を見るなり、体の震えを一層激しくさせる。 男の手の中のそれは、携帯のバイブレーションにも似た感覚であった。
「ほぉら。テチ。お風呂で綺麗綺麗しような」
震えるテチを、浴槽に近づける。
チュワァァァァァァァ!!!! デヂヂーッ!! デヂヂーッ!!
お湯を、いや水を見た途端、それを拒絶し始めるテチ。 歯を鳴らし続けるテチの脳裏には、ここ数日の痛い苦しい記憶しかない。
(ごぼっ… ごぼぼっ…)
[見ろよー。亀が釣れたぜ。亀!] [次はもっと大物を釣るぞー!] [もっと深めを狙った方がいいぜ]
テアアアアアアアアアアアアァァァァァァ…………(じゃぶん)
(ごぼっ… ごぼぼっ…)
[あれ?川底に引っかかったぞ!!] [やばいぞ。巻け!巻け!]
ゥポッ!! テヴォッ…!!
(ごぼっ… ごぼぼっ…)
[やべー。こいつ、息してねーぞ!!] [あはは。まじー]
テキャァァァァァッッ!!! キャァッ!! デキャァァァァッッ!!!
浴槽のお湯につけられた途端、テチの脳裏には、ここ数日の恐怖体験が鮮明に蘇った。 テチは、気が触れんばかりに暴れ始める。
「飼い主さん。もっと押えて。」
テェ!? チュアッ!! ピャァ!! ピャァァァッッ!!!
浴槽の中で、溺れるテチ。 顔は、お湯にすら浸かっていないのだが、両手を首にあて、苦しそうにもがき続けている。
ピェェェェェェンッ!!!! ピェェェェェェェンッ!!!!
再び緊張で気道が細まったのか、喘息のような喘ぎ声で、甲高い声を上げて泣き続ける。
涙の色は、再び血涙と変わっている。 テチの股間から噴出す水状の糞が、湯の中で咲く花のように、湯の色を緑に染めて行く。
医師は、泣き叫ぶテチを他所に、黙々とテチの傷口を洗い、火傷の跡を消毒していく。
「胃の中も、吐瀉洗浄もしておきます」
医師がテチの口を無理やり開けさせ、嘔吐(ゲロリ)成分が入った薬を飲ませる。 その薬を口に含むや否や、テチはお湯の上に、胃の中の物をぶちまける。
チュバッ!! ゲパッ!! ロパーッッ!! ロパァーーッッ!!
「ごめんな… ごめんな…」
男は、必死にテチの背を指でさすり、テチに話かけた。
ロパーッッ!! ロパァーーッッ!!
テチが胃の中の物を戻すたびに、蝿の死骸や、まだ蠢く蛆やらが、黄色い胃液と共に吐き出される。
ピェ… ェ…
胃の洗浄が終わった頃には、テチは気絶をしていた。
(パチン)
ェ…
(パチン)
テェ…
(パチン)
……
テチは、診療台の上で、白いガーゼに巻かれて気を失っている。 医師は、医療用のニッパーで、テチの耳に噛むホッチキスの芯を、器用に切断し、 細いピンセットのような物で、芯を取り除いて行った。
気を失っているのだが、時節痛みに耐えかね、無意識の内に小さな悲鳴を繰り返すテチ。
(パチン)
テェェェ…ッッ!!
今のは特に痛かったのだろう。耳を瞬かせる。 そして、震える手で、耳を掻くような仕草を何度も繰り返す。
(パチン)
医師は、黙々と作業を行う。
男は、このような所作をした人間に憤りを感じると共に、この憐れなテチに対して 深い憐憫の情を隠せないでいた。
(パチン)
テェ…
男は何もすることができない。 ただ、テチの手を握り、ひたすら声をかけてやる事しかできない自分がもどかしかった。 鼻を啜りながら、必死にテチに語りかける男。
「痛くないぞ…(ぐず)」
(パチン)
テェ…
「大丈夫だからな…(ぐず)」
(パチン)
…ェ
耳に噛んだ血塗れの頭巾が取れる頃には、疲労のためか、テチは完全に沈黙していた。
耳の傷を消毒し、火傷に薬を塗り、湿布を張り、包帯を巻き、全ての治療が終えた頃には、 既に日付が変わっていた。
治療を終えたテチは、タオルに包まり、ケージの中で、細い息を繰り返している。 医師はカルテに、何かを書き込みながら、男に向かって、今後の治療について説明を行っていた。
「後は安静にして下さい。あと市販でいいので、定期的に栄養ドリンクを与えてください」
「はい」
「体の傷は大丈夫です。実装石ですから、栄養を与えれば、数週間もしないうちに全快する でしょう。ただ…」
「ただ?」
「見たところ、酷い虐待を受けていたみたいですね。ご存知の通り、実装石は肉体的な 回復力はすごいんですが、精神的な回復っていうのは、そう簡単ではないんです」
医師の話では、虐待後のケースとしては、空想への退避、幼児退行などを繰り返し、 酷い時には、ストレス死なども引き起こすケースもあると言う。
こうなった症状の実装石に対しては、愛を以って飼い主が接する事が肝要であり、 間違っても虐待をするようであれば、精神的な崩壊をもたらす可能性も否めないと言う。
「時間はかかるかもしれませんが、長い目で、接してあげてください」
男は実装医師に礼を言い、診療室を後にした。 受付で、看護婦に化膿止めや湿布薬などの説明を聞きながら、男は待合室にいるはずの 中年女を探した。
「あ、お連れの方は、既に支払いだけして、帰られましたよ」
看護婦が言う。
「何か気分が優れないご様子でしたね。小言で「あんなのうちの仔じゃない」って、 ずっと繰り返して言ってたんで、気にはしていたんですけど…」
「……そうですか」
中年女は、2度もテチを迷子にさせてしまっている。 そして、その2度とも、共に居た母親を死に至らしめてしまっていた。 その2度までの失態が、中年女に完全に実装石を飼う事に対する自信を失わせてしまっている のは確かだった。
医師の話では、虐待後は精神的な回復を優先させなければならないとあった。 今の憔悴した中年女に、今の状態のテチを預けること自体が不安であると、男は感じている。
男は、気絶するケージの中のテチを見やる。 とりあえず、今はテチが優先だ。
男は実装病院を後にし、駐車場へと向う。 ケージを助手席に置き、できるだけ静かにエンジンを吹かし、ハンドルを握った。
◇
男の家のリビングのソファーの上が、テチの簡易ベットとなった。 ソファーの上に、柔らかいクッションを敷いて、バスタオルを四つ折にして、枕をつくる。
包帯の巻かれた姿であるが、病院から戻ったテチは裸の状態である。 ピンクの実装服と頭巾は、病院で脱がされた後、処分されてしまっている。
寝かせる前に、市販の下着、緑の実装服と頭巾を着させ、そこにテチを寝かせる。 そして、ハンドタオルを掛け布団代わりにかけてやる。
テチを寝かせた後、男は帰りのコンビニで購入した栄養ドリンクを袋から漁る。
メッコール。 メッコール・ゴールド。 メッコール・エクセレント(タウリン3000mg配合)
その内の1本を取り、男はテチに飲ませようとする。
「テチ。栄養ドリンクだ。飲め」
…………
栄養ドリンクを開けて、匂いを嗅がせても、テチの反応は薄い。 スポイトなどの洒落たアイテムが、独身男の家にあるはずもない。
考えた挙句、男は台所に走り、ストローを手に取って戻ってくる。 そして、メッコールを自らの口に含み、ストローを口にした。 そして、ストローのその反対側を、テチの開いた口に宛がった。
少しずつ、口に含んだメッコールをストローの先へと垂らす。
(ポトリ…)
テチの乾いた唇が、メッコールに気がついたのか、口をぴちゃぴちゃとさせて、喉を潤した。
もう1回。 次は少し多めに。
テチは、無意識のうちに、爛れた両手でストローを掴み始めた。 そして、何度かする内に、テチは逆にストローを口に咥え、ストローを吸引し始めた。
瞬く間に、男の口の中に含んだメッコールは、男の唾液と共に無くなった。 今だ、空のストローを、チュパチュパ吸引するテチ。
「ああ、待ってろ。テチ」
男は、再びメッコールを口に含み、ストローに口を宛がう。 テチは、ストローを力一杯握り締め、口に滴る甘露に頬を赤らめていた。
次の日。 テチが目覚めたのは、昼を回った頃であった。
テェェェェェンッ!!! テェェェェェンッ!!!
目覚めと共に、まずテチは泣き始める。 痛みを訴えているのか、母のいない不安を訴えているのか、男にはわからない。
「起きたか、テチ。お腹空いてないか?」
その男が、リビングに入り、テチに顔を見せる。
この日、男は仕事を休んでまで、テチを看病している。 その頃は、男の仕事は特に繁忙期でなく、男は、貯まった年休の消化を許可してくれた 会社の上司、同僚には深く感謝をしていた。
男は、悲壮感を消し、できるだけ明るく努めて、笑顔でテチに話しかける。
「テチー。痛くないかぁ?」
テァッ!? テジャァァァァッッ!!!
リビングに入った男の顔を見るなり、テチがソファーから落ちるようにして逃げ出す。
チュアッ!! チュアアアアッ!!!!
火傷だらけの痛い体を転げながら、リビングの中を、男から必死に逃げるテチ。
ジュアアアアアアァ!! ジュアアアアアアァ!!
テチの体のあちこちが悲鳴を上げている。 テチにとっては、体を苛むこの痛みの根源が、まったく理解できていない。
『体が痛い=恐い人間が痛みを与えている』
テチは、そういう図式でしか、今の現状を理解できていない。
小さい小さい脳みそに焼き付けられた記憶。 あの河川敷での焼き付けられた恐怖の記憶。
『ピンク、元気かぁ?』
デギャァァァァァーーーッ!!!! デギャァァァァァッッ!!!!!
『今日も、いい声で鳴いてくれよな〜』
チュワァァァァァァ!!!! チュワァァァァァァッ!!!!
『おーい。花火あるか? 花火?』
テェェェェェェンッ!!! テェェェェェェンッ!!!
「テチ! 落ち着け! テチ!」
チュワァァァ!!! (ブリッ!! ブリブリッ!!)
「テチ! テチ!」
デヂヂー!!! (ジョォォォォォ……)
男は、必死にテチを気遣い、テチに近づき話しかけようとするが、テチは緑の染みを リビングに垂らしながら、四つん這いで、必死に男から逃れようとする。
這う度に、体中に走る痛み。 痛みが走る度に、耳元に響く男の声。
テチは這いながら、涙に潤んだ眼窩をギョロリと男の方に向け、震える歯を必死に喰い縛る。 そして、必死に這って辿り着いたリビングの隅のカーテンの裏に体を隠し、両手で頭を押さえて、 ガタガタと震え続けている。
テチ!テチテチテチテチテチテチテチテチテチ…
カーテンの隙間から、露になった木綿製の下着は、もりもりと緑色に膨れ上がり、 むわっとする臭気をリビングに放っている。
「ほら、テチ。お腹すいただろ。プリンだ、ほら」
テェッ!! テェェェッ!!(ガタガタガタ…)
男が手にするプリンにも見向きもせず、テチはひたすらカーテンの裏で、震えている。
「そうだ。人形! 人形だ!」
男がリビングのクローゼットに駆け寄る。 クローゼットの奥には、首から綿が出ている実装人形が横たわっている。
「テチ。ほら! ママだ! ママだよ!」
テチテチテチテチ… テェ!?
カーテンに顔に埋めていたテチが、チラリと実装人形を見た。
テェッ!! テェェェェェッ!! テチィィィィィィィィィッッーーー!!!!
叫ぶと同時に、テチはカーテンから飛び出す。 実装人形のピンクのスカートを捲り、その中に頭を突っ込み、テチは嬌声を上げる。
テチュゥ〜♪ テチュゥ〜♪
突き出した緑の下着をフリフリ振りながら、スカートの中から、テチの甘い声が聞こえて来た。 男は、テチが落ち着いたことに、安堵の声を漏らす。
「さぁ、テチ。プリンだ。お食べ」
そう言って、テチを刺激せぬよう、ゆっくりとスカートを捲る。
チュァッ!? シャァァッッ!? テシャァァァァァァァァァッッ!!!
同時に、スカートの中から、くぐもった威嚇の声。 突き出した緑の下着が、再び膨らんでいく。
その姿を見るに、男は捲ったスカートを離してしまう。
「テチ…」
テチの威嚇の声は、しばらく続いていた。
◇
こうして、男とテチとの奇妙な介護生活が始まった。
テチの簡易ベットは、ソファーからリビングの隅へと変わった。 床にクッションを敷き、その傍らに実装人形を置く。
丁度、テチがクッションの上に横たわると、テチの頭が実装人形にスカートに隠れるような位置だ。
テスー… テスー…
今もテチは、上半身だけをスカートの中に埋めて、クッションの上で仰向けで寝ている。
虐待を受けたテチの短期記憶には、ほぼ河川敷の出来事が強烈に焼きついていた。 自分よりも大きな生き物。すなわち、ニンゲンが痛い事をした、という記憶が暗示のように テチを縛っている。
男が如何に優しい声を出そうが、美味しいプリンを出そうが、テチの目に映る全てのニンゲンは、 痛い事をするニンゲンとしか映っていない。
そして、今のテチは火傷の後遺症のためか、動く度に、体中に理不尽極まる痛みが走るのだ。
その痛みが、河川敷での花火の火傷の後遺症である事は、テチ自身理解できていない。 その痛みは、誰かに与えられている痛み。そのようにしか、理解できていないのだ。
男が近づくと逃げ回る。 動くと体中の傷が痛み出す。 痛みの理由がわからず、一番近くに居る男を怨む。
その繰り返しだ。
そのうち、テチは男の気配を感じるだけで、ゥ〜!! ゥ〜!!と威嚇の声を漏らすようになっていた。
男も、テチに怨まれている感を、肌にひしひしに感じ続けている。 しかし、テチに近づかなければ、治療もままならぬのだ。
怨まれるのを承知で、男は今日もリビングに入り、テチのために治療を続ける。
ヂャアアアアアア!!
「動くなテチ。湿布が替えれないだろ」
デチチー!! デチチー!!
包帯を取ると、痛みが走る。 涙を流し、歯をガチガチと鳴らし、テチは男の顔を凝視する。
この顔だ! 痛い事する人間! ケホンケホンする人間!
許さない!許さない!絶対、許さない!
テチッテッチィィィ! テチッテッチィィィ!
「はいはい。テチ。いい仔、いい仔」
瞳孔の開いた目で、テチは男の顔を凝視続ける。
「大分、治って来たな。新しい湿布に替えるぞ」
テチは、ガチガチと歯を鳴らしながら、親の敵でも見るかのように、歯を喰いしばり、 男の顔を睨みつける。
事故で死んだエリサベス。河川敷で死んだポリアンナ。 花火で焼かれた記憶。川に沈められた記憶。痛い記憶。痛い記憶。痛い記憶。
テェ… テェ…… テッスン… テッスン…
ぐるんぐるんと嫌な記憶が脳裏を巡る。 テチは、次第に悲しくなり、テスンテスンとぼろぼろと涙を零し始める。
「どうした?テチ。痛いのか?」
テェエエエエエン!! テェエエエエエン!!
「ごめんな、痛かったな。ごめんな」
男は、泣き続けるテチをあやし続けた。
テェエエエエエン!! テェエエエエエン!!
テチは、悲しくて、哀しくて、いつまでも泣き続けた。
テチは、男が干渉する以外は、そのほとんどを睡眠時間に充てていた。 それは、傷ついた実装石の本能のためか、傷を癒すためにテチは眠った。
傷を治すために、体が栄養を欲する。 それが実装石である。
体が栄養を欲すると、必然的に空腹感を訴える。
テスー… テスー… テェ…?
実装人形のスカートに、上半身だけ入れて眠っているテチの目が覚める。 テチはグ〜と鳴るお腹と共に、鼻をクンクンと鳴らし、寝床から這い出す。
這い出すと言っても、スカートの外にではない。 実装人形の胸元に向かって、進んでいく。
チュパ… チュパ…
遠い記憶。実母であるエリサベス。継母であるポリアンナから与えられた母乳の味。 河川敷で起こった記憶の洪水の氾濫の中で、微かにたゆたう暖かい記憶。
吸引。 栄養を欲するテチの体は、テチを今の行動に駆り立てていた。
体が栄養を求め、必然的に母乳を捜し求めるテチ。 しかし、相手は実装人形。乳が出るはずもない。
チュパ… チュパ…
吸引する音が、無情にリビングに響く。 しかし、男がその音に気付き、リビングに駆けて来る。
「テチ。起きたか。ごはんにするか」
ッ!? ゥ〜ッ!! ゥ〜ッ!!
男の気配に気付いてか、実装人形の胸元で、唸り始めるテチ。
男は、人肌に暖めたミルクをマグカップに入れて、実装人形の元に座った。 そして、ストローを咥え、ミルクを口に含み、人形の服を捲る。
チュワァ!! チュワァ!! チュ…!
威嚇が始まる前に、ストローの先を、さっとテチの口に宛がう。
威嚇よりも、甘いミルクの匂いの誘惑に負けたテチは、無意識に両手でストローを掴み 鼻をピスピス言わせながら、男の口の中のミルクを吸った。
ング… ング…(ピスピス…)
首を突き出し、目を瞑り、頬を赤笑めて、口に咥えたストローを、両手で必死に掴んで、 吸引を続けるテチ。
男の口に含んだ、人肌のミルクは、あっと言う間になくなる。
ンー!! ンー!!
薄目を開けて、次をねだるテチ。
「わかった。わかった」
チュー… チュー…(ピスピス…)
こうやって、男はテチに食事を与えていった。 栄養剤や飲みにくい薬なども、この与え方であれば、テチは受け入れてくれた。
食事が終わると、テチはトロンとした瞼を両手で擦りながら、小さな欠伸をする。 そして、もぞもぞとスカートの中に、体を移し、そのまま眠りへとついた。
夜。 階下で響く声が聞こえる。
ィィィィーーー…
寝室で眠りについていた男の目が覚める。
ィィィィーーー…
テチの夜鳴きだ。 看護を始めて、ほぼ毎日。 テチは決まって、夜鳴きをする。
恐い夢を見たのか。 母を求めて、泣いているのか。
テチは高架下に居た時のように、暗がりに向かって鳴き続ける。
テチィィィィィィィィーーーーーッ!!!!
階下に降りて、電気をつけるとテチの声が一層大きくなる。
チュワッ!! チュワワワワワッッ!!!
明るくなった部屋に目が慣れていないのか、目をより一層真ん丸にして、男の姿を凝視する。
チュェ… チュエェェェェェ…… (じょぉぉぉぉぉぉぉ…)
男の姿を見るなり、寝る前に替えたばかりの下着の中で、お漏らしをする。 両手は、ないはずの首に結われた紐を掴み、男の姿を親の敵のように見続ける。
「テチ。静かにしなさい。夜は鳴いては駄目」
テェ…!! テェェェェ……!!
男が近づくと、テチはガクガクと膝を鳴らしながら、後ずさるようにして逃げる。
「ほら。ママだよ。ママ」
男が実装人形を持ち上げて、歩かせる。
テェェ!! テチュ〜ン♪ テチュ〜ン♪
「はいはい。いい仔、いい仔」
実装人形の手を掴み、テチの頭を撫でてやる。
チュワッ!! チュワ〜ン♪ チュワ〜ン♪
「ねんね〜ん♪ ころり〜よ♪」
夜鳴きの時は、こうやって、母代わりにテチを撫でてやり寝かす。 30分も立てば、テチはうっとりして、寝息を立て始める。
テスー… テスー…
テチの寝息を確認して、男は欠伸をしながら、自分の寝床へと戻った。 窓から空を見上げると、既に空は白み始めていた。
◇
週に1度、男はテチを病院へと連れて行く。
移動用のケージにテチを入れ、ケージを車の助手席に乗せる。 エンジン音と共に、ケージの中が急に騒がしくなる。
デチャアアア!!! デチャアアア!!!
テチだ。 テチが、車のエンジン音に反応し、騒ぎ立てているのだ。
ただ騒いでいるだけでない。 ケージの窓に手をかけて、泣き叫びながら、ガタガタと震えている。
恐い。恐い。恐い。車が恐い。 それは、テチの深層心裏に植えつけられたトラウマに近い物だった。
幼少の頃、実母を失った原因となった車。 その生理的に受け付けない振動と音。
しかし、テチの治療のため、遠く離れた実装病院には、テチを車で連れて行くしかない。 テチはその定期的な通院の度に、車の助手席のケージの窓から男を睨みつける。
テェェ…
テチの脳裏の中で、幼少の頃の記憶と、ケージの窓から覗く男の顔がリンクするには、 そう時間はかからなかった。
車は疾走する。 右へ。左へ。
テェ…ッ!!
車がカーブを曲がるたびに、体重の軽いテチは、ケージの中で右へ左へ転がり回る。
テェェェェェッッ!!
痛い。傷が痛い。とてつもなく痛い。 体が感じる振動。嫌の車のエンジン音。 そして、窓から見える男の顔。
テェエ… テェェ…
こいつだ。 ママに痛いことした人間。 車でママに痛いことした人間。
涙と糞塗れになりながら、ケージの中でひたすら震えるテチは、確信した。
テッスン…テッスン… テェエエエエエン!! テェエエエエエン!!
そう確信すると、自然に涙が溢れてくる。 無性に悲しくなり、拭っても、拭っても、涙は溢れ続けた。
そのテチの唯一の憩いは、リビングの実装人形だった。 病院から戻ったテチは、一目散に人形に向かって駆けていく。
テチュー!! テチュー!!
スカートの中に顔を埋め、大声で鳴き始める。
テェエエエエエン!!
実装人形の下着に、テチの大きな涙の染みが、出来上がっていく。
「ええ。もうすっかり。今なんて、走っていきましたよ」
男は、実装人形に縋って泣くテチを見つめながら、廊下で携帯電話で話をしている。
「大丈夫ですか?そちらは」
『もう少ししたら、退院できるざます。本当にご迷惑をお掛けしたざます』
電話の相手は、中年女だった。 男がテチを保護してから1週間。 中年女は、その後、心労でか体調を崩し、入院を余儀なくされていた。
男はテチの病状を、定期的に中年女に伝えていた。 最初はテチの変わり果てた様を毛嫌いしていたが、テチの回復を伝えるたびに、 電話口の中年女の口調も、心なしか元気になっていくようだった。
愛護派である。 今、自分を苛む体調の原因となった実装石が順調に回復しているのだ。 元気にならないわけはない。
『私、決めたざます』
電話口で、中年女の明るい声が弾む。
「何がですか?」
『カトリーヌちゃんを連れて、実家に戻るざます』
「え…?」
一瞬、男の声が強張った。
「実家ですか?」
『私の実家は田舎ざます。空気も水も綺麗で、車も何も走ってない処ざます』
「………」
『そこでカトリーヌちゃんと暮らすざます。とってもいいアイデアざます』
リビングには、テチのくぐもった泣き声が響いていた。
テェエエエエエン!! テェエエエエエン!!
電話を終えた男が、そのリビングの実装人形の元へ近寄る。
ッッ!! ゥゥゥ〜〜ッ!!
男の気配を察してか、テチの泣き声が止み、一変して威嚇の声に変わる。
「テチ。おまえの飼い主、そろそろ退院するってさ」
ゥゥゥ〜〜ッ!! ゥゥゥ〜〜〜ッ!!
「テチ。よかったな。水も空気も綺麗なところらしいぞ」
シャァァァァッ!! シャァァァァッ!!
「おまえの嫌いな車も走ってないてさ」
デチチー!! デチチー!!!
テチがスカートの中で暴れている。 保護当初に比べて、火傷の傷が癒えただけ、テチは体を使っての感情を現し易くなっている。
叫ぶ。唸る。手足をバタつかせる。 近づいた男に向かって、威嚇の限りを繰り返す。
今までと違った威嚇。 それは、恐怖に囚われた威嚇でない。 明らかに、敵意を持った威嚇である。
シャァァァァァッッ!!! プルッシァァァァァッッ!!!
「おい。テチ。暴れるなよ」
実装人形が揺れる。 揺れると共に、実装人形の首も揺れる。 ポリアンナに噛まれた首元の綿もはみ出ている。
プルッシァァァァァッッ!!!
テチが暴れると共に、実装人形のアンバランスな頭部が、ふいに前に倒れたかと思うと、 ぶちっという音と共に、その実装人形の首がもげ、男の足元に転がった。
チュアアアッッ!! チュアアアッ… チュ…?
丁度、スカートを撒くし上げ、男に向かって威嚇をしようとしたテチの目の前に、その実装人形の首が転がった。
……
ピンクの実装頭巾をした、実装人形の首が転がる。
テェ…
「あーあ。取れちゃったじゃないか、テチ」
テェェェ…
実装人形の首を抱いた男が、テチに向かって語りかける。
「ん?どうした?テチ」
テェェェェェ……!!!
「大丈夫か?テチ」
ポリアンナの首を抱いた男が、テチに向かって語りかける。
ヂャアアアアアアァァァーーーーーー!!
「テ、テチ?どうしたんだ」
テェエエエエエン! テェエエエエエン!
「お、おい。おいってば!」
テチは溢れる涙を堪えきれず、混濁する記憶の海に翻弄されながら、その場で泣き暮れるしかなかった。
テェエエエエエン! テェエエエエエン!
「ほら、テチ。プリンだ。プリン。食べるか?」
30分後、男はようやくテチを泣き止ませることに成功した。 実装人形の首は、安全ピンで止められ、不恰好な形になっている。
テッスン… テッスン…
甘いプリンを口にして、ようやく泣き止んだテチ。 目を腫らし、痛い手で、目を擦り続ける。
テッス… テッス…
混濁した記憶の中、唯一テチに理解できた事。
「大丈夫か?テチ」
この男だ。
テッスン… テッスン…
悪いのは、こいつだ。
テッスン… テッスン…
全ては、この男のせいだ。
テッスン… テッスン…
そう確信すると、また自然に涙が溢れてくる。
テェエエエエエン! テェエエエエエン!
テチの腫れた瞼の奥には、男に対する瞋恚の炎が燃えていた。
(続く)